笑いの諸段階


矢ヶ崎紘子(AMOR編集部)

哲学者アンリ・ベルクソンがいうように、笑いは笑う側の問題なのだから、何を面白いと思うか、どう笑うかによって、笑う人間の状態が様々に表れていると考えて良いだろう。笑いと宗教について少し読書すると、人間の「社会の身振り」としての笑い、宗教的な「霊的身振りとしての笑い」、そしてさらに「神の笑い=聖なる歓喜」まで、一連の段階のようなものが見えてくる。

 

1.社会の笑い 深刻さからの離脱

わたしたちの社会の現状から始めよう。昨年来のコロナウイルスの蔓延は健康上の問題のみならず、特に経済的な影響を受けやすい人々にとって危険な状況を引き起こしている。不況下の経済政策について論じた『経済政策で人は死ぬか?』という本がある。タイトルになっている疑問の答えは「その通り。経済政策で人は死ぬ」。本書は不況下で緊縮財政をとることが国民の健康状態の悪化を招き、結局国家にとってより大きな経済的損失につながることを説いている。しかしこの本の注目すべき点は、社会を生体、不況を疾病、経済政策を医療ととらえていることである。「経済政策は社会に対する医療である」と著者たちはいう。日本では2020年の現金給付のようなお上からの「医療」はまた行われるのだろうか。

もし、「医療」としての経済政策を期待することができないとしても、我々には自己治癒の力がないだろうか。笑いが必要ではないだろうか。ベルクソンも、社会を生き物と見た一人である。彼によれば、生きているものは常に柔軟に動いていて、凝り固まっている状態は心地よくない。笑いは社会にとって凝りをほぐすような動きなのである。自由であると思っていながらその実何かに操られている人、まるで機械仕掛けのように決まりきった運動をする人などは滑稽である。政治家がまるで同じことを繰り返すのが滑稽なら、われわれがいつも同じ言葉でその政治家を笑ったり、現状を嘆いたりするのも滑稽ではないだろうか? われわれは自分は自由だと思っていて、その実同じような問題に毎度お決まりの反応をしていないだろうか。もしかしたら、そんなわれわれ自身を笑う話が書けるかもしれない。このような社会的な凝りをほぐす笑いは、どうしても社会がこわばった状態を「矯正」するという意地悪な要素が多少あって、どんなに面白いものでも、誰かを笑うことには「一抹の苦味」が残るとベルクソンはいう。特に冷笑、嘲笑のたぐいは笑われる方にとってだけでなく、笑う方にとっても苦いものかもしれない。

では、コロナ下の社会という病気の身体に施す苦くない薬はないのだろうか。織田正吉は、笑いを「人を刺す笑い」「人をたのしませる笑い」「人を救う笑い」にわけていて、最後の「人を救う笑い」としてのユーモアを、失敗してはいけないという態度から救う、不完全さをゆるし、人間の弱さをいたわることと特徴づけている。日本社会にもっと必要なのはこの姿勢かもしれない。

織田は「笑いを論じるのに抽象論は空き缶ほどの役にも立たない」と手厳しいので、日本人のユーモアの具体例を挙げてみよう。たとえば本多静六は、生活全般について軽妙な文章で、かつまじめで地に足のついた助言をしている。たとえば家庭内のもめごとについては、最高法規「ジャン憲法」、つまりジャンケンポンという気楽な手段で決める(これは戦後、新しい憲法が制定されたことを背景にしているようだ。国の憲法という大きさ、かたさと家庭の憲法というささやかさ、私的なやわらかさの落差がおもしろい)。同じ家庭内では誰の意見に決まってもいいようなことが多く、意地を張って深刻な問題にならないうちにジャンケンできめるのだという。家庭ではもちろん真剣な事柄もあるけれども、深刻に考える必要のないことで険悪になる必要はないのだ。夫唱婦随か婦唱夫随かでさえ「実はどっちでもいいことだ」と言っている。このような、賢く朗らかな笑いは「こうでなければならない」と深刻にとられている事柄から人を離脱させ、無駄な悩みから救う。

 

2.宗教的・霊的笑い 「私」からの離脱

人間が社会的存在であるとともに霊的存在なのであってみれば、いわば「霊的身振り」としての笑いというものがあるのではないか。あるいは社会としての宗教がもつ笑いというものがあるだろう。その特徴は何だろうか。キリスト教では、福音書でイエスが笑ったという記述がないこと、さらに「今、泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:21)とあるのに対して「今笑っている人々、あなたがたに災いあれ。あなたがたは悲しみ泣くようになる」(同6:25)とあることから、本当の笑いは終末まで延期され、現世は泣きながら生きる「涙の谷」となった。キリスト教にも冗談はたくさんあるが(嫌いな人を地獄に落とす笑い話はたくさんある。冗談か本気かはわからない)、それは涙の谷の悲しみを和らげるためのものかもしれない。

冗談を許容するということは、その宗教が柔軟な心を保っていることを意味している。たとえば、こんな話がある。司祭が聖霊降臨の日に神学校でミサをたてていると、聖霊の象徴である鳩が飛んできて窓に激突した。司祭は、聖霊降臨の日にふさわしいことだと喜んだ。しかし神学生たちが見に行くと、その鳩は死んでいた。それで神学生たちは聖霊は生きているのか死んでいるのかと議論しあったという。こういう話を冒涜としてとがめるかわりに冗談として楽しむことは、霊的に「がちがち」にこわばることを防いで、心が神に向かって柔らかく動くのを助けてくれる。鳩が死んだからといって聖霊が死ぬわけがないのだ。

ただ、キリスト教に限らず宗教は全般にとても真面目なものなので、その真面目さを減らしてしまうかのような笑いは推奨されるものではなく、黙認、譲歩、利用するものとして扱われているようである。日本でテーラワーダ仏教を説くスマナサーラ長老は「笑いは自我の不安からくる発作であり、品がないこと。仏陀も出家も笑わないが安らかで、不機嫌とはまるで逆である」としつつ、仏教の節度ある笑いの特徴として品位、人格向上、教化を挙げている。仏教の教えは世間の考えを超えているので、その教えに耳を傾けてもらうには面白さが必要だというわけだ。つまり、手段としての抑制された笑いは容認されるということのようである。

長老が仏典の中から挙げた例のうち短い話を一つ引いてみよう。ある仏教徒の夫婦がいたが、あるとき夫が病気になる。妻は、未練を残して死ぬことがないよう、彼が死んでも心配がいらない理由をじゅんじゅんと説得する。普通なら「あなたが死んでも大丈夫」と言われたらずいぶん落ち込みそうなところだが、夫は妻をあとに残す悩みから清められてすっかり元気になってしまう。思わず笑ってしまうこの意外な結末の物語は、自分が生存すること、ひとから必要とされることが最も重要であり、死は恐ろしく、別離は苦痛だというこの世の価値観からあっさりと離脱している。長老の解説によれば、この妻の、夫の生死に執着しない態度は、近親者を大切にしないということではなくて、理想的な悟りの姿なのである。

聖書の中でユーモラスな書として知られる「ヨナ書」の中で、ヨナはたびたび怒って神に抗議するが、その時に何度も「私」という言い方が出てくることを宮田光雄は指摘している。「こんなことなら死んだ方がましです」という激しい怒りが誤っていることを神はヨナに理解させる。それを読んでわたしたちは笑う。宗教の笑いを、そういう、怒りや自分へのこだわりに満ちた、深刻でこわばった「私」を「矯正する」という点から見ることもできるだろう。そこにはまだ涙の谷の「一抹の苦味」が残っているように思われる。

 

3.神の笑い 苦味なき歓喜

では、苦味なき霊的な笑いというのはないだろうか。コート師の『笑いの神学』は、これまでみてきた、笑いを警戒する宗教の真面目な性質や、イエスが笑ったという記述の欠如、笑いを現世の誘惑や罪と結びつける解釈などを踏まえた上で、なおかつ笑いについて驚くほど積極的な考えを示している。いわく、

笑いを「聖なる」神秘と認めることによって始めるアプローチが必要である。これまでのこうした諸理論は、笑いの現象を「見上げ」ないで、「見下げ」ることによって説明している。……こうした諸理論は、人間の笑いが高いところからの映しであることに気づいていない。笑いが無限に大きな歓喜をもって、またすすんで神のほうからなさることの映しであることに、つまり、笑いが真に聖なるものであることに気づいていない。

ここでは、笑いは「上から」来る。笑いは人間的なものであるけれどむしろ神の歓喜であって、人間は神の笑いによって笑う(神が笑うという擬人的な表現は、神が偶像ではなくて、生きていることを表現している)。神はわれわれが「こうなるだろう」と思っている見通しの外側から意外な形で侵入してくる。わたしたちはそこに神のユーモアを感じ取って笑う。神からくる笑いは神がわれわれと親しく関わる存在であることの表れである。

キリスト教徒が笑えばすべて「聖なる歓喜」であるというわけではない。聖なる歓喜を見分ける指標は「自己放棄、いのちへの尊敬、神との親しさ」である。このすべてについて書くことはもうできないが、ユジーン・オニールの戯曲『ラザロは笑った』が紹介されているので、この三点をまとめるものとして、そのことを書いて終わりにしたい。このような喜びに満ちた笑いが世に浸透し、貧困の悲しみを癒すように願いながら。

キリストによって復活させられたラザロは言う。「わたしと笑ってください。死は死んでいます。恐怖はもうありません。いのちだけがあります。笑いだけがあります」。そして彼の笑いは初めは「やわらかに」、そして「いのちを完全に受け入れた笑いになる。生きる喜びを深く確信した笑いになる。恐怖がまったくなくなるので、笑いは、愛によって広がる」。

 

【参照・引用元】
『笑い/不気味なもの 付 ジリボン「不気味な笑い」』H. ベルクソン、S. フロイト著、原章二訳、平凡社、2016年
『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス著、橘明美、臼井美子訳、草思社、2014年
『「日本人らしさ」とは何か 日本人の「行動文法」を読み解く』竹内靖雄著、PHP研究所、2000年
『笑いとユーモア』織田正吉著、筑摩書房、1979年
『私の生活流儀』本多静六著、実業之日本社、1951年、2013年
『キリスト教小噺・ジョーク集』場崎洋著、聖母の騎士社、2011年
『ブッダのユーモア活性術』アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ、2008年
【仏教の答え】笑いの分析――幸福になる笑い、不幸になる笑い スマナサーラ長老との対話、仏教の教え ブッダの智慧で答えます(一問一答)(動画、2021年4月12日閲覧)
『キリスト教と笑い』宮田光雄著、岩波書店、1992年
『笑いの神学』リチャード・コート著、木鎌安雄訳、聖母の騎士社、1992年

 


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