善人たち


晴佐久昌英(東京教区司祭)

キャサリン「でも兄さんは自分の善意や理想主義が相手をどんなに重くし、どんなに傷つけるかを、考えたことがあるの。一度でも。ジェニーがその犠牲者よ。そして、ひょっとすると日本人も……。」

(遠藤周作『善人たち』より)

遠藤周作没後二十五年にあたる昨年末(編集部注:2021年12月)、長崎市の遠藤周作文学館で、未発表の戯曲三本が発見されたというニュースが流れたのをご存じでしょうか。中学生の頃から遠藤文学に親しんできた一司祭にとっては胸ときめくニュースでしたので、先月(編集部注:2022年3月)出版されてすぐに手に入れ、一気に読みました。収められている作品は、本のタイトルにもなっている「善人たち」と「切支丹大名・小西行長」、そして「戯曲 わたしが・棄てた・女」。こんな傑作を三本も未発表のままにし、結果的に埋もれていたという事実に驚かされると同時に、その三作品がいずれも、まるで二〇二二年の現実に向かって語りかけてくるような内容であることについては、摂理としか言いようのないものを感じたのでした。

巻頭の「善人たち」は、太平洋戦争開戦前夜、牧師を目指してアメリカに渡った一人の日本人、阿曽をめぐる物語です。阿曽を自宅に住まわせる牧師補のトムは、まじめで善意に満ちたアメリカ人であり、家には出戻りの姉ジェニーと、妹のキャサリンがいます。キャサリンは、兄が「相手のため」といってなす善意の言動が本当は「自分のため」だという偽善性を見抜いており、彼が日本人の留学生を同じクリスチャンとして歓迎しているようでいて、心の奥では排除していることを知っています。冒頭のキャサリンのセリフは、姉のジェニーが不道徳であることを責めるトムに向かって、それは「利己的な理想主義」にすぎないという思いをぶつけたセリフです。

やがて日米は開戦し、従軍牧師となったトムと日本軍の兵士となった阿曽は、南太平洋の小さな島で、クリスチャン同士なのに殺し合わなければならないという極限状態で再会することになります。ラストの息が止まりそうな臨場感は強烈で、個人の偽善や国家の偽善、宗教の偽善という人類の罪の深奥を描き切った傑作であると感じました。

信仰の反対語は、無神論でも不道徳でもありません。それは偽善です。福音書においてイエスが激しく憤る場面は、いずれも偽善者に向き合うときです。信仰深そうな顔をしながら弱者を排除し、自分の利益のために他者を苦しめる人たちをイエスは容赦なく批判します。偽善こそが、信仰から最も遠いこころであることをイエスは見抜いているのです。遠藤周作が当時の日本教会をどう思っていたかは知りませんが、ジェニーのこんなセリフがあります。「自分の生活が乱されない限りでは握手しあう。しかし、それ以上を越えてはもらいたくない。ここの教会も基督教の信者も皆、そういう考えを持っているんだから」。宗教的な偽善の問題は人類の本質に関わっているのであり、つまりはこの私のことなのだと、読者は次第に気づかされていきます。

 

遠藤周作『善人たち』(新潮社)

今や、「これはみんなのため」と言いながら大量虐殺を続けるプーチン大統領の偽善と、その妄想のような「利己的な理想主義」を全世界が見つめていますが、それに加担する宗教者もいることに、愕然とさせられます。ロシアの政権と蜜月関係にあり、政府から多額の資金援助を受けているロシア正教のキリル総主教は、ウクライナの反ロシア勢力を「悪の勢力」と非難して、軍事侵攻を正当化しているのです。おりしも聖週間、大聖堂ではキリスト受難の朗読があり、イエスの言葉が読まれるでしょうし、総主教も聞くはずです。いや、もしかするとその口で読んでいるかもしれません。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と。自ら十字架を背負い、敵を許しながら死んでいったキリストの受難物語を顔色一つ変えずに読むならば、それを偽善と呼ばずして何が偽善でしょうか。さすがにロシア国内の心ある信徒や聖職者たちは戦争反対声明を出しているようですが、ロシアの侵略戦争を批判する説教をした司祭が逮捕されたというニュースも流れました。残念なことに、いまなお多くのロシア国民は戦争を支持していますし、悲しいことに、大統領を筆頭にそのほとんどはキリスト教徒なのです。

遠藤周作は、だれもの心の内に巧妙に巣くっている偽善を暴き出します。わたしたちもまた向かい合わなければなりません。「わが心の内なるプーチン」と「わが心の内なるキリル」と。それを見ようとせずに「戦争反対」と言うことに何の意味があるでしょう。遠藤は無宗教の警察官にこう語らせます。「現にドイツの基督教徒の兵士がヨーロッパ戦線でフランスの基督教徒の兵士を殺している。ポーランドの基督教徒の兵士を殺している。基督教などというのはせいぜい、そのくらいのものさ。平和の時には、人間の愛だの神の愛だの美しい言葉を並べているが」。

 

阿曽は開戦後、敵国民として拘束されてでもアメリカに留まろうとします。帰国すれば兵隊にとられるからです。彼は言います。「銃を握らされる。誰かを殺す。ぼくはそれができないんです。人を殺して、そのあと平気で牧師になりつづけることができないんです」。

果たして日本が戦争を始めたとき、われらが晴佐久神父は、たとえ逮捕されてでも戦争を批判する説教をするのでしょうか。

(『上野教会報』二〇二二年四月十七日号より転載)

 


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