幼い頃の遠藤周作との思い出


中村恵里香(ライター)

私が遠藤周作という人の名を初めて意識したのは、小学校3年生の11月でした。なぜ、くわしく覚えているのかというと、その日、わが家では一番下の弟がまさに生まれようとしている日だったからです。産気づいた母のために産婆さんを呼びに行き、夕方父が帰ってくると、お手伝いに来てくれたおばさんの作った夕食を食べ、父の書斎でワルキューレを聴きながら、ベッドで横になっているときに、電報が届いたのです。そんな慌ただしい日に電報が届いたので、記憶の底に鮮明に残っています。当時わが家には電話がなかったので、父は慌ててお隣に電話を借りに行きました。

戻ってきた父を玄関で出迎えると、なぜかすごく興奮していました。電報は、遠藤周作という人からのもので、父が送った原稿を読んで話がしたいといわれたとのことで、まさに踊らんばかりの興奮状態でした。

後にわかったことですが、父は、遠藤周作氏が編集長を務めていた「三田文学」の原稿募集に遠藤氏の『沈黙』についての評論を送っていたそうで、それを読んだ遠藤氏が電報を送ってきたとのことでした。これにより、父は文芸評論家・上総英郎として文章を書き始めます。そのときの評論は、『遠藤周作へのワールド・トリップ』(パピルスあい刊)の中に「共感と挫折――「沈黙」について――」として掲載されています。

その後、日々の生活の中で、たびたび遠藤氏の名前をよく聞くようになります。小学校の高学年になると、昼間横浜の高等学校で教員していた父の代わりに新宿紀伊國屋書店本店の上にある「三田文学」の編集部に何度も原稿を届けに行くようになりました。そのとき、遠藤氏の姿をよく見かけましたが、近寄りがたい威厳のある姿にちょっと恐ろしい人という印象でした。遠藤氏の姿よりも若い大学生ぐらいの男女が、いきいきと働いている姿はすごく印象的でした。

次に遠藤氏と出会ったのは、中学2年生の夏休みです。本を読んだり、原稿をまとめて書いたりしたいという父の希望により、東軽井沢の田舎家を借り、一夏を過ごすことになり、父のご飯づくりと高校受験に向けて勉強するために私が一緒に行くことになりました。数週間田舎家で一緒に過ごした後、北軽井沢にある知人の別荘で勉強会があるので、一緒に行くようにいわれました。後にわかったことですが、その頃、父は椎名麟三氏のお弟子さんたちの集まり、“種の会”の方々と親交を深めていたようです。その“種の会”の勉強会に遠藤氏がいらっしゃるので出かけたのでした。

日本キリスト教芸術センターでの忘年会の一コマ。左から加賀乙彦氏、デーケン神父、遠藤周作氏、右手前が小柴昌俊氏。

そんな大人の勉強会に私が参加できるわけもなく、知人の別荘で勉強しているようにとお弁当を渡されて一人残されたのでした。今では当たり前ですが、当時は映画の中でしか観られないようなログハウス風の山小屋といった家で、吹き抜けの屋根裏部屋に敷かれた布団と座卓だけのある部屋に一人置かれたのです。柱時計が30分ごとに鳴る薄暗い部屋に一人残され、柱時計の音が恐ろしく、勉強するどころではありません。早々に夕食を食べ、布団に潜り込むのですが、幽霊が出るのではないかとさえ思え、恐ろしくてなかなか眠れません。

半べそをかき布団に潜り込み、泣きながら寝てしまった頃、男性2人の声が下から聞こえます。1人は父の声だとわかるのですが、もう1人は聞いたこともない声でした。「大丈夫なのか。返事がないじゃないか」という声とともに2階に上がってきた男性は、恐ろしく背の高く、やせ形の人でした。私が寝ているのをみると、布団から抱き上げ、ぎゅっと抱きすくめてくれました。「怖かっただろう」と。それが遠藤氏でした。それまで「三田文学」の編集部で見る苦虫をかみつぶしたような顔とは全く別の人物でした。その優しい顔を見てなぜかこころが和らぐのを感じたのでした。

これがまだ遠藤氏の小説を読んだことのない子どもの頃の遠藤氏と私のかかわりです。その後もさまざまな出会いと交流があるのですが、またいつかその話を書きたいと思います。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

three × five =