ジョージアの歴史とキリスト教


石川雄一(教会史家)

最古のキリスト教地域、西アジア

ローマ帝国がキリスト教を受け入れ始めた4世紀前半、西アジアのコーカサス(カフカス)地方ではキリスト教を国教とする国が現れました。アルメニア王国とイベリア王国です。

伝承によると、1世紀に西アジアのエデッサという地を治めていたアブガル5世(?-50頃)という王様は不治の病に苦しめられていました。「イエスという人物がイスラエルで人々を癒している」という噂を耳にした王様は、イエスに救ってもらおうと考え、使者を派遣しました。このアブガル王の招待に対し、イエスは「私を見ないで信じたあなたは幸いです」(ヨハ20・29)と前置きしつつも、「遣わされたすべてのこと」(つまり、受難と復活)を成就しないといけないため直接行くことはできないが、弟子を遣わすと約束しました(エウセビオス『教会史』秦剛平訳、山本書店、1986年、p. 68)。そして遣わされた弟子はアブガル王を含むエデッサの人々の病を癒して福音を宣べ伝えた、と言われています。

この伝承がどの程度の歴史的事実を反映しているのかは分かりませんが、古くから西アジアでキリスト教が信じられていたことは疑う余地がありません。実際、4世紀初頭頃に照明者聖グレゴリオス(257頃-328頃)という人物から洗礼を受けたアルメニア王ティリダテス3世(250頃-330)がキリスト教を国教とすることで、アルメニア王国が史上最初のキリスト教国となりました。その後、隣国のイベリア王も聖ニノ(280頃-332頃)から洗礼を授けられ、イベリア(今日のジョージア)は世界史上最も早い時期にキリスト教を国教とする国となりました。

キリスト教というとヨーロッパやアメリカのイメージが強いかもしれませんが、世界で最初にキリスト教を受け入れた地域は西アジアだったのです。今回はそんな西アジアのコーカサス地方に位置するジョージア(グルジア)という国のキリスト教史を概観してみます。

 

イベリア、グルジア、ジョージア

古代、ジョージアが位置するコーカサス地方は「イベリア」と呼ばれていました。イベリアと聞くと、スペインやポルトガルがあるヨーロッパ西端の半島が頭に浮かぶかもしれません。なぜ、ヨーロッパの西端と東方のコーカサス地方が同じ名前で呼ばれているのでしょうか。

そのはっきりとした理由は分かっていません。一説によると、コーカサス地方からイベリア半島に移住した人々の一団がおり、彼らの子孫が民族系統不明のバスク人となった可能性があるそうです。つまり、イベリア半島に住んでいる一部の人々とコーカサス地方に住んでいる人々は、遠い昔は同じ民であった可能性が示唆されているのです。他にも「ギリシアから見て遠い地域を一緒くたにイベリアと呼んだ」と主張する人もおり、諸説あります。

さて、イベリアと呼ばれる地域は、中世に入るとラテン語やギリシア語で「ゲオルギア」と呼ばれるようになりました。この名称の起源についても諸説あるのですが、ローマ時代の聖人である聖ゲオルギオス(?-303)に由来するという説を後ほど紹介いたします。

このゲオルギアという国名が後にグルジアやジョージアとなっていったことは想像に難くありません。ですが、ジョージア語での国名は「サカルトヴェロ」といい、ゲオルギアという言葉とは離れています。これは日本が外国で「ニホン」と呼ばれずに「ジャパン」や「ヤーパン」と呼ばれるのと同じ理由によります。

ところで、一昔前は「グルジア」と呼ばれていた国がなぜ「ジョージア」になったのでしょうか。先ほども述べたように、「グルジア」も「ジョージア」もジョージア語の国名ではなく、それぞれ、ロシア語と英語に由来する国名です。

後述するように、近代ジョージアはロシアの政治的影響下にありました。19世紀にはロシア帝国に、20世紀にはソヴィエト連邦に支配されたジョージアはロシアの一部とみなされ、日本でもロシア語に由来する「グルジア」という名前が広がっていきました。20世紀末にジョージアは独立を果たしますが、2008年にはロシアとの間に紛争が勃発し、ロシア語の外国名からの脱却を望む声が高まりました。その結果、2015年に日本でも正式に国名が英語読みの「ジョージア」となったのです。

 

聖ニノ

ジョージアをキリスト教化した人物は聖ニノと言われています。伝承によると、彼女は聖ゲオルギオスの親族でした。ジョージアにキリスト教を根付かせた聖人が聖ゲオルギオスの親族であったため、古代にイベリアと呼ばれた地域は、中世以降、聖ゲオルギオスに由来する名で知られるようになった可能性があるのですね。

なお、聖ゲオルギオスは、英語ではジョージ、フランス語ではジョルジュ、スペイン語ではホルヘ、ドイツ語ではゲオルクなどと呼ばれ、広く崇敬されてきました。そんな聖ゲオルギオス(セント・ジョージ)はイングランドの保護聖人であり、白地に赤の「聖ゲオルギウス十字」がイングランドの国旗となっています。同じくジョージアの国旗も白地に赤の「聖ゲオルギウス十字」です。つまり、イングランドとジョージアの国旗のルーツは同じということですね。

スヴェティツホヴェリ大聖堂にある聖ニノのイコン

聖ニノの話に戻りましょう。聖ニノはイエスの「聖衣」がコーカサス地方にあるという噂を聞き、ジョージアの人々に福音を告げる召命を受けました。「聖衣」とは、ヨハネ福音書19章23節に出てくる「縫い目がなく、上から下まで一枚織り」の下着のことです。中世西欧ではコンスタンティヌス大帝(272頃-337)やカール大帝(747頃-814)にまつわる伝説が形成されるのですが、ジョージアにも「聖衣」に関する古い伝説がありました。

その伝説によると、イエスの磔刑時のイェルサレムにいたジョージア出身のユダヤ人エリオズは、「聖衣」を故郷へと持って帰りました。兄が救い主の「聖衣」を持って帰ってくれたことに感動した妹のシドニアは、喜びのあまり昇天しました。そして彼女を「聖衣」共に葬ったところ、そこから一本の立派な木が生えました。

ジョージアをキリスト教化した聖ニノは、シドニアと「聖衣」が眠るとされる場所を発見しました。聖ニノはそこに教会を建てようとしましたが、一本の立派な木が生えているではありませんか。教会建築のためにその木を切り倒そうとしたところ、その木は突如宙に浮き、病を癒す聖なる水が流れ出した、と言われています。

ジョージア正教会の総主教座が置かれてきた教会は、上記の逸話に基づき、「生きた柱」を意味するスヴェティツホヴェリ大聖堂の名で知られています。カトリックにとっての聖ペトロ大聖堂のように、ジョージア正教にとって重要なスヴェティツホヴェリ大聖堂は、世界遺産に登録されており、今日もたくさんの巡礼者や観光客を魅了しています。

 

中世のジョージアとアルメニア

中世ジョージアは、同じく4世紀にキリスト教国となった隣国アルメニアやローマ帝国(ビザンツ帝国)と複雑な関係を構築していきます。

ジョージアとアルメニアはバグラティオニ(バグラトゥニ)家という同じ王族を共有していました。伝説によると、この王家は旧約聖書に登場するダヴィデ王の子孫だそうです。そのため、ジョージアの王様にはダヴィドという名前の人が多いです。

現在のジョージアの名目上の王様もダヴィドという名前です。名目上の王様といったのは、今のジョージアは共和制で王様がいないためです。それでも王政復古を望む人は少なくなく、バグラティオニ家の末裔を名目上の王様としています。

ジョージアやアルメニアよりも強大なビザンツ帝国は、東地中海世界の覇者として様々な影響を周辺地域に及ぼしてきました。

キリスト教の教義を定めたニケア公会議(325)を開催したコンスタンティヌス大帝の伝統を受け継いだ歴代の皇帝たちは、度々公会議を主催して教義論争に関与しました。テオドシウス大帝(347-395)の開催したコンスタンティノポリス公会議(381)、テオドシオス2世(401-450)の開催したエフェソス公会議(431)に続き、マルキアノス(392頃-457)はカルケドン公会議(451)を開催しました。

カルケドン公会議で議論されたキリスト論の問題や背景は難解なため詳言は控えますが、何れにせよ、公会議が採択した「カルケドン信条」は万人を納得させることができませんでした。一部のエジプト人は「カルケドン信条」を認めずにコプト派を形成しましたし、ビザンツ帝国内でも非カルケドン派は度々反乱を起こしました。さらにはフィリッピコス(?-713)という非カルケドン派の人物がビザンツ皇帝になることもありました。

「カルケドン信条」を巡る混乱はジョージアやアルメニアにも波及します。アルメニア人は教会会議で正式に「カルケドン信条」を退け、非カルケドン派のアルメニア使徒教会を組織しました。一方で「カルケドン信条」を受けいれたジョージア人は、カルケドン派のジョージア正教会を形成することになりました。

 

「黄金時代」とその後

中世ジョージアが最も栄えたのは「黄金時代」と呼ばれる12世紀前後でした。「黄金時代」の礎を築いたダヴィド4世(1073-1125)という王様は、戦争で強力な外敵を破る一方で、内政改革や芸術の保護により国内を繁栄させました。以降、彼の子デメトレ1世(1093頃-1156)、孫のギオルギ3世(?-1184)、曾孫のタマル(1160頃-1213)の代まで、約100年に渡って「黄金時代」が続きます。

特にタマルはジョージア史上初の女王であり、ジョージアの歴史で最も人気のある人物の一人です。彼女の時代のジョージアは、衰退していたビザンツ文明より優位に立って、存在感を示しました。そんな彼女を讃え、19世紀ロシアの詩人レールモントフ(1814-1841)は詩『タマーラ』(1841)を残し、作曲家のバラキレフ(1837-1910)はその詩に曲をつけた交響詩『タマーラ』(1882)を書きました。最近では大人気シミュレーションゲーム『シヴィライゼーション6』(2016)にも登場しました。

ジョージア史を代表するような女王タマルの死後、「黄金時代」は終わり、王国は急激に衰退していきます。その一因としてモンゴルの拡大があげられます。極東から急速に勢力を伸ばしたモンゴルは、1220年代にジョージアにも侵攻してきました。モンゴル人との戦いで負傷したギオルギ4世(1191-1223)は没し、その後、ジョージアはモンゴルに征服されてしまいます。

1335年にギオルギ5世(1286頃-1346)はジョージアを独立に導きますが、翌年には黒死病(ペスト)の大流行により王国は大打撃を受けます。15世紀にはジョージア王国が分裂してしまい、オスマン・トルコやペルシアといったイスラームの国々に蹂躙されます。1801年にロシア帝国に併合されたジョージアは、以降、ソ連崩壊の時代までロシア人に支配されることとなりました。

ここまでキリスト教に関連する事柄を中心に、ジョージアの歴史を駆け足で見てまいりました。世界史の教科書などではほとんど触れられない歴史であり、日本人には馴染みのない話であったかもしれません。ですが、この簡単な歴史紹介の記事からも推察できるように、ジョージアには独自の興味深い歴史と文化があります。今回の他の特集記事と併せて、ジョージアのことを知る一助となれば嬉しいです。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

4 + 3 =