特集92 イスカリオテのユダへの注目


この使徒へのやむことのない追想

読者の皆さんは、イスカリオテのユダという人についてどんな印象をお持ちでしょうか。キリスト信者の方なら、イエスの最後の晩餐について、そしてその受難を物語る福音書を通じて当然に知っている名前でしょう。信仰者ではなくても、あの有名なレオナルド・ダ・ビンチの『最後の晩餐』の絵が、この中に裏切り者がいると告げられて動揺する使徒たちの驚きを活写していること、その中にイスカリオテのユダがいることはご存じでしょう。イスカリオテのユダに、いずれにしてもイエスを裏切った男というインプットが最初からあるために、この固定観念を超えてまで、彼のことを考えるのがおろそかになりがちです。

福音書が伝えるイエスを巡る人々について、AMORではマグダラのマリアを取り上げたことがあります(2022年7月特集)。マグダラのマリアには現代においてとても注目が寄せられていますが、それとある意味で連動するところもあるのがイスカリオテのユダへの注目です。今回の主題化は、AMORの友から一つの考察エッセイ(「ユダさえも救われる」)が寄せられたこともきっかけの一つですが、ごく最近の雑誌や発行書籍でも再び、取り上げられていることも関係しています。たとえば、昨年2023年4月号の『信徒の友』誌(日本キリスト教団出版局)では「イースターの赦し イスカリオテのユダ」という題の特集で三つの良い記事が編まれています。

現代の読書界・学界でユダがひときわ注目を集めるきっかけとなったのは、2006年4月に米国のナショナル・ジオグラフィック社から『ユダの福音書』(グノーシス主義文書の一つ)のコプト語本文と英訳がインターネット上で公開されたことでした。これから一種のユダ・ブームが起こり、日本でも、そうした事態に応答すべく、新約学の第一人者、荒井献氏や大貫隆氏などの著作がなされています(「イスカリオテのユダ……関係書籍案内」参照)。

そうしたなか、それ以前にユダについて書かれていた文学者たちの作品や、近代ヨーロッパ精神史におけるユダ像の変遷などが調べ上げられ論じられるようになっています。その対象は文学、神学書にとどまらず、イエスの受難をめぐる絵画・図像、映画やオペラ、劇などユダやユダ的なものの登場に高い関心や調査が向けられています。

こうした状況自体がとても興味深いものです。繰り返されるユダへの追想は何をもたらしているのでしょうか、イスカリオテのユダについて思うことにはどのような意味があるのでしょうか、どんな観点から見ていくのがよいのでしょうか……そんな問いを抱きながらの、AMORとしての探求の事始めです。

 

ジョット作『ユダの接吻』

ユダさえも救われる

ユダが主役? と思うような映画

神のまなざしは冷静~~中世の「最後の晩餐」図とユダ

イスカリオテのユダ……関係書籍案内

「選ばれた」捨てられた者、イスカリオテのユダ~カール・バルト『イスカリオテのユダ』ブックレポート~

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キム・パフェンロス著『ユダ・失われた弟子のイメージ』

 


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