いのちなるキリスト 詩篇103篇1-5節


佐藤真理子

わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみに心をとめよ。
主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓からあがないだし、
いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
あなたの生きながらえるかぎり、
良き物をもってあなたを飽き足らせられる。
こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

(詩篇103篇1-5節)

キリストのご復活おめでとうございます!
キリストは今、生きています。現実に生きているのです。聖書の物語は勿論2000年前の歴史が語られたものですが、そこに記されているそのキリストに、私たちはいま直接関わることができます。キリストは復活し、いま生きているからです。

今回、今一度福音について考えてみたいと思います。福音はキリスト教信仰の根幹をなすものです。福音とは良い知らせを意味する言葉ですが、それはキリストの存在についての知らせを指しています。なぜキリストの存在が良い知らせとなるのでしょうか。それはキリストが私たちを「罪」と「死」から救う存在だからです。それゆえにキリストは救い主なのです。

創造のはじめ、神は世界を良いものとして創られました。神様は私たち人間の存在を「非常によい」ものとして創造し愛しました。人には全てのものが備えられ、欠けるものは何一つありませんでした。また、人は神に対して全面的な信頼をおいていました。神をまっすぐに信じていたのです。本来あるべき神と人との関係がそこにはありました。

人が暮らしていたエデンの園の中心には二本の木がありました。「いのちの木」と「善悪の知識の木」です。神は善悪の知識の木の実は「取って食べると死んでしまう」から、決して食べてはならないと人間に語っていました。

ところがある時、人の中に神に対する疑いがもたらされることになりました。蛇の姿をしたサタンは人間に近づき「善悪の知識の木の実を食べても死ぬことはなく、神のように善悪を知る者となる。」と話します。サタンは神と相反する方へ人を向けようとする存在です。人は初めて神の言葉を疑い、サタンの言葉を信じました。最初の人間であるアダムとエバは善悪の知識の木の実を食べました。このとき人に「罪」と「死」が入りました。それ以降、人は罪を持ち、死ぬ存在となったのです。

神はこのことを知ると蛇の姿をしたサタンに、「サタンを打ち砕き、『罪』と『死』から人間を救う存在」が現れることを語ります。

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。

(創世記3章15節)

これはサタンに打ち勝って人を罪と死から救うイエス・キリストの存在を預言した言葉です。神は人が罪のある状態で生きながらえることがないよう、永遠のいのちをもたらす「いのちの木」に近づけないようにしました。

罪は神から離れることです。善悪の知識の木の実を食べ、罪ある存在となった人間は神に対し疑いを持つようになりました。信じることと対極にあるのが疑いです。神と人間の間にはそれによって亀裂が入りました。神への信頼、つまり信仰は失われ、人は神を信じることのない存在になりました。神よりも自分を正しいものとし、人は自分を神とするような生き方をするようになりました。

ここまでが旧約聖書のはじめにある創世記の内容です。聖書を読み進めると、モーセを介して神から律法が与えられたこと、またその内容が記された律法書が続きます。これらの律法は神の基準を示したもので、誰一人破ることなく生きるのは不可能な高い基準を示しています。神の基準です。この基準を破ることは罪となり、罰が課せられます。

罪は愛から外れた思いや行為です。嘘をつくこと、誰かを憎むこと、誰かに愛のない態度をとること、情欲の目で人を見ることなど、愛から離れた態度は皆、罪です。神は愛だからです。それゆえ新約聖書で「愛は律法を全うする」と語られているのです。愛を傷つけることは神を傷つけることなのです。神は清い存在なので、罪を背負った状態では人は直接関わることができません。罪に対する罰を受け、罪を贖わなければエデンの園でそうだったような良い関係を再び神と結ぶことはできないのです。

神は人間との良い関係を取り戻そうとしましたが、私たちを深く愛していたがゆえに、私たちに罪の罰を受けさせたくありませんでした。そこで、罪を贖うための存在として、一切罪のない唯一の人間である神ご自身の子供であるイエス・キリストをこの世に送りました。旧約聖書の預言書は救い主キリストについての預言が書かれた書です。そしてその預言の成就は新約聖書で語られています。キリストは100パーセント神であり、また100パーセント人間である存在です。神は人のすべての罪を代わりにこのイエス・キリストに負わせ、罪を贖わせるため十字架にかけました。
キリストは十字架で処刑され、私たちの罪は贖われました。この時から私たちは再び神との関係を結ぶことができるようになったのです。十字架によって、人の神に対する罪は赦されました。キリストを信じるだけで罪が赦され神の子となれる道が私たちに開かれました。

キリストは十字架で死んだ後、黄泉に下り、三日後に肉体を伴って復活しました。キリストは死を克服したのです。そして、それを示すために復活後弟子たちに会い、その後天に昇りました。こうしてキリストは死に打ち勝ち永遠に生きる者となりました。また、復活を通してキリストを信じる者にも、キリストと同じように永遠のいのちが与えられました。キリストを信じる者は一度死を迎えても必ず復活し永遠のいのちを持つことが保証されたのです。

キリストはこのようにして、人を罪と死から救いました。

私は小さな頃からキリスト教の告別式の雰囲気が好きでした。勿論他の宗教のお葬式に出ることもありましたが、それに比べて、キリスト教の告別式は何か明るいというか、光に満ちているような気がしたからです。それはキリスト者にとって、死が決して終わりでないことを意味しているからだと成長するにつれてわかりました。キリスト者には、復活への希望があり、永遠のいのちが約束されているのです。

キリストは私たちの初穂としてすでに復活しました。キリストは今、私たちの目の前にいます。私たちは復活し生きているキリストと直接かかわることができるのです。生きているキリストと共に生きることが、キリストを信じる歩みです。キリストの手足となって愛を広げて生きることが、キリスト者の歩みです。キリストは最高の神学であり、最高の教理です。キリストを信じることは複雑なルールに追従することではありません。神が私たちに求めているたった一つのことは、「愛であるキリストと親密に生きること」です。
キリストは「いのちの木」です。キリストを通して神との関係が回復された私たちには、エデンの園のとき神が人にそうしていたように、すべての良いものを飽き足りるほどに備えてくださいます。

神は人に自分への愛を強制しませんでした。愛は決して強制からは生まれないからです。だから、エデンの園には「いのちの木」と「善悪の知識の木」があったのです。自由が与えられている私たちがその自由の中でいのちを選ぶことを神は喜ばれます。いのちとは、キリストです。キリストと共に生きましょう。キリストの香りを放って、周りの人に希望を与える人となるように、神は私たちに期待しています。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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