イスラエル史(パレスチナ史)


石川雄一(教会史家)

歴史上、パレスチナは様々な勢力の係争地となってきました。特に、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖地イェルサレムは、様々な思惑が入り混じった複雑な歴史をたどってきました。今回は、そんなパレスチナの地の歴史を簡単に概観します。

 

聖書時代

まずは、聖書の記述を見てみましょう。今日のイラクにあたる地域のウル出身のアブラハム(アブラム)は、神の言葉に従い、パレスチナへ向かいました。そして、カナン人の住んでいた地についたアブラハムに対して、神は「私はあなたの子孫にこの地を与える」(創12・7)と約束されます。こうしてパレスチナの地は、神の保証により、アブラハムの子孫のものとされたのです。

そのアブラハムの孫ヤコブは、ある夜、超自然的な存在と格闘をし、その相手から「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ」(創32・29)と告げられます。フランシスコ会聖書研究所の注によると、「イスラエル」とは、「神は闘う」または「彼は神と闘う」という意味だそうです。こうしてアブラハムの子孫はイスラエルの民と呼ばれるようになり、パレスチナの地もイスラエルと呼ばれるようになるのです。

そのイスラエルの子ヨセフは、兄弟の陰謀によりエジプトに売られてしまいますが、ファラオの信頼を獲得して宮廷の責任者にまで昇りつめました。そして、パレスチナで飢饉がおこると、イスラエルの民はヨセフを頼ってエジプトへ移民しました。ですが、時と共にエジプト人によるイスラエルの民への扱いが厳しくなると、『出エジプト記』にあるように、モーセがエジプト脱出を率いることとなるのです。

モーセと共に出エジプト果たしたイスラエルの民は、紀元前13世紀末頃、再びパレスチナに住むこととなりますが、新たにペリシテ人という強敵にも直面します。このペリシテ人と戦うため、イスラエル人はサウルを初代王とした古代イスラエル王国を建国しました。ちなみに、パレスチナという地名は、ペリシテ人に由来すると言われています。

レンブラント『天使とヤコブの闘い』(1659年)

さて、サウルを継いだダヴィデとその子ソロモンの時代に古代イスラエル王国は絶頂期を迎え、その後は南北に分裂してしまいます。その内の北イスラエル王国は前722年にアッシリアによって、南ユダ王国は前586年にバビロニアによって滅ぼされます。こうしてイスラエル人は、アッシリア捕囚とバビロニア捕囚の辛酸をなめることとなるのです。

前538年、バビロニアを滅ぼしたアカイメネス朝ペルシアのキュロス大王により、イスラエル人は虜囚の身から解放され、パレスチナへの帰国を許されます。ですが、このアカイメネス朝ペルシアも前331年のガウガメラの戦いでアレクサンドロス大王に大敗し、滅ぼされてしまいます。新たな支配者となったギリシア人たちにより、ヘレニズム文化圏が形成されますが、この異国の多神教的文化とイスラエル人の一神教は相容れませんでした。ギリシア人に対してマカバイ戦争と呼ばれる反乱をおこしたイスラエル人は、前140年、新たにハスモン朝を樹立します。

前1世紀、盛者必衰と言われる通り、ヘレニズム文化圏に代わり、ローマ人が新たな世界の覇者となろうとしていました。イスラエル人もローマ人に服し、総督と傀儡の王がパレスチナを支配することとなります。こういった時代に活躍したのがイエス・キリストでした。

 

古代から中世

「歴史の父」と言われるヘロドトスの時代からヨーロッパ人からパレスチナと呼ばれてきた地を、ローマ人はユダヤ属州と呼んでいました。ユダヤという名は、イスラエル人のユダ族に由来する名ですが、ローマ人が属州の名前としたことで、より一般的になったと言えるでしょう。

さて、ユダヤ(イスラエル)人たちは、一時はローマ帝国の帝権に服しましたが、ヘレニズム時代と同じく文化的な摩擦は時代と共に激しくなっていきました。ローマ帝国からの独立を求めたイスラエル人たちは、ユダヤ戦争と呼ばれる反乱をおこすも鎮圧され、ユダヤ属州はシュリア・パラエスティナ属州と改名されてしまいます。ユダヤ人の神殿があったイェルサレムもアエリア・カピトリーナと改称され、ユダヤ人はシュリア・パラエスティナ属州から追放されてしまいます。古代イスラエル王国の滅亡後、捕囚などによりパレスチナを離れるユダヤ人が増えていましたが、ユダヤ戦争の失敗後に追放されることにより、完全にディアスポラ(離散)の民となったのでした。

さて、ユダヤ人を追い出して名実ともにパレスチナの支配者となったローマ帝国は、4世紀にキリスト教を受けいれます。キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の母である聖ヘレナは、敬虔なキリスト教徒であり、聖書の舞台であるパレスチナに巡礼しました。その際に彼女は、イエスを磔にしたとされる「真の十字架」に代表される数多くの聖遺物を発見し、アエリア・カピトリーナと改称されていた地名もイェルサレムに戻しました。以降、イェルサレムには多くの巡礼者が詣で、キリスト教の聖地として本格的に発展することとなります。

4世紀末になるとローマ帝国は東西に分裂し、パレスチナは東ローマ帝国、いわゆるビザンツ帝国の領土となりました。5世紀になると、キリスト教会はカルケドン公会議を巡る論争により二分され、ビザンツ帝国も政治的な不安定に襲われることとなります。こうした混乱の中、勢力を拡大していたササン朝ペルシアは614年にイェルサレムを征服し、「真の十字架」も奪われてしまいました。帝都コンスタンティノポリスまでもがペルシアの脅威に晒されますが、時の皇帝ヘラクレイオスは反撃に乗り出し、「真の十字架」とイェルサレムの奪還に成功しました。ですが、安心できたのもつかの間、新たに勃興してきたイスラーム勢力がササン朝ペルシアを滅ぼし、637年にはイェルサレムも陥落しました。こうしてパレスチナはイスラームの勢力内に入ったのでした。

時は流れ11世紀末、ヨーロッパにおける様々な情勢変化を受け、教皇ウルバヌス2世はイェルサレム奪還を目指す十字軍を提唱しました。諸勢力の思惑が入り乱れる中、第一次十字軍はイェルサレムを含むパレスチナを征服し、十字軍諸国(ウートゥルメール)を建国しました。「キリスト教の狂信的な軍隊」という誤った俗説とは異なり、フランスが中心となった世俗的運動であった十字軍が生み出した十字軍諸国は、ある意味でフランスによる植民地でした。つまり、中世のある期間、パレスチナはフランス人により支配されていたのです。

十字軍諸国はイスラーム勢力による圧力を受け続けた不安定な地域でした。この十字軍諸国を救助するために幾度も十字軍が派遣されますが、1291年にイェルサレム王国が滅亡することにより、フランス人を中心としたキリスト教徒の西欧人によるパレスチナ支配は終わりを告げます。

 

近世から現代

16世紀、オスマン・トルコがパレスチナを支配していたマムルーク朝を倒して新たなパレスチナの支配者となりました。近世東方世界で絶大な権勢を誇ったオスマン・トルコですが、18世紀末にはその威信にかげりが見え始めました。こうした状況の中、オスマン・トルコに支配されていた諸民族は独立の機運を高め、各地で反乱が勃発していきます。

“神に与えられた地”を奪われていたユダヤ人たちも、オスマン・トルコ領であったパレスチナに自分たちの国を建てることを望みました。イェルサレムの雅名シオンに由来してシオニズムと呼ばれることになる運動が展開されることとなったのです。

20世紀初頭に勃発した第一次世界大戦でオスマン・トルコと対立した英国は、戦後のパレスチナの処理を巡り、「三枚舌外交」と言われる政策を展開します。つまり、英仏露の三ヶ国で分割統治をする「サイクス=ピコ協定」、アラブ人の独立を認めた「フサイン=マクマホン協定」、シオニズムを支持した「バルフォア宣言」の矛盾するように見える三方針を示したのです。

結果、第一次世界大戦に勝利した英国は、パレスチナを「委任統治領」の名のもとに自らの勢力下に置きました。「サイクス=ピコ協定」に則ってパレスチナを手に入れた英国は、同時に、「フサイン=マクマホン協定」に従って領土の一部をアラブ人に与えてトランスヨルダン王国とし、「バルフォア宣言」に従ってユダヤ人の入植を支援しました。

こうした苦し紛れの英国の対応は、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の対立を激化させました。状況が収拾できないほどに悪化したのを見ると、ついに英国は委任統治の終了を宣言して、パレスチナ問題から手を引こうとしました。

1948年5月14日、英国の委任統治が終わるその日に、ユダヤ人指導者のベン=グリオンはイスラエルの独立を宣言しました。これに反発したアラブ諸国は連合軍を結成し、中東戦争が勃発することとなりました。

パレスチナの地におけるユダヤ人とアラブ人の対立は今日まで続いています。駆け足でパレスチナの歴史を概観してきたこの記事が、パレスチナ問題に関心を寄せている方のさらなる学びのための一助となれば幸いです。

 


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