ベトナムから来た人々、そして歴史との出会い


石井祥裕(上智学院編『新カトリック大事典』編集実務委員)

今回、ベトナムがテーマになっているなか、ある不思議なギャップに気づかされています。日本のカトリック教会に身を置いていると、ベトナム人の方々と知り合う機会があちらこちらにあるということが一つ。それに対して、ベトナムという国の歴史、とりわけキリスト教の歴史についての知識が自分たちの中に圧倒的に不足していることです。このギャップそのものが、日本という国に生きている私たちの現実なのではないか、と思いつつ、そこを少しでも飛び越えてみたいと思い、遠い日の私自身のベトナム人との出会いを思い起こしつつ、ベトナムの歴史を学び始めていくつも感じられてくる驚きに焦点をあてて記してみたいと思います。

 

出会い

ベトナム出身の若者たちと初めて出会ったのは、1980年代初め。1975年のベトナム戦争の終結、ベトナム社会主義共和国の成立後の状況から発生した難民が多数、日本にもやってきていたころのこと。神奈川県大和にあったキャンプに滞在してから埼玉県川口市に居を構えた一家があります。そのうちの子どもの二人の兄弟に対して、日本語の家庭教師を縁あって頼まれることになりました。まったくのアルバイトとして依頼され、引き受けることになったものです。私自身、その頃は大学院博士前期課程修了後の就職浪人のアルバイト生活者でした。

そのベトナム人家族の状況を生み出した政治的背景や国際関係については漠然としたかたちで受けとめるだけの、ぶっつけのその一家との出会いでした。その仕事は1年足らずのことだったと思います。その兄弟は、外国人という感じもなく(日本語を話してくれるからですが)、東アジア人としてのなにかの共通感覚で、兄弟か親戚と感じられる人たちでした。とても温厚で、にこやかな人々……それは、それ以後もベトナムの人々から感じられる特徴です。

二人の兄弟の日本語の勉強は、二人の仕事が終わったあとからのことでしたので、夕方彼らの家に行くと、この一時間以上かけてやってくる、自信なげな頼りないような日本人青年をお母さまがベトナム風家庭料理で最大限もてなしてくれました。多すぎるほどでしたが、その一年はよく養ってもらったと思っています。そこには、ベトナム難民とその受け入れ国日本の市民、というような関係ではまったくなく、ひとりのひ弱な日本人青年を受け入れてくれた愛にあふれる一家の姿がありました。日本語を話せないながら、お父様は身振り手振りで、戦争時代の苦労を伝えてくれました。ベトナムのカトリック信者の家では、家庭祭壇が重要で、家庭での祈りが大切にされているという習慣も教えてくれました。

ベトナム語というものの生きた雰囲気も、兄弟の会話を聞きながら触れることができましたし、少しは何かベトナム語を知ることができないか、と、あの頃はまだ珍しかったベトナム語辞典を購入しました。ただ、ベトナム語の学習は、まだ本格的にはできていません。不義理が続いています。私の結婚式にも、彼らやその友人たちを招き、遠いところをかけつけてくれたということもありました。そんな友人関係でした。その後、兄弟の弟のほうは米国に移住し、兄のほうは同国人の女性と結婚し、日本で家庭を築き始めたことまでは伝え聞いていますが、その後は心の思い出の中だけの存在になっています。

2000年以降、私が大学の神学部や神学院で講師職に就くようになってからは、毎年、受講者として、ベトナムから来た青年たちとの出会いがひっきりなしに続いています。修道会の神学生、日本の教区に属して働くことになる神学生、そして、さまざまな女子修道会の会員たちです。一般的な日本とベトナムとの間の関係、ベトナムの国内事情、そして日本の教会における状況変化など、さまざまなことが作用し合って生まれている現実です。

 

ベトナムの歴史に触れての驚き

そのようななか、所属教会で始めた勉強会で日本のキリスト教史を学んでいくなかで、ベトナムのキリスト教の歴史、とくにカトリック宣教と殉教の歴史にほんの少しですが、触れることがありました。きっかけは、『新カトリック大事典』でした。その第1巻(研究社 1996年発行)に「ヴェトナム」という項目と「ヴェトナムの殉教者」という項目があります。ザビエルがインドや日本に来た宣教のことは、多少聞いてきたにしても、東南アジアや東アジアの諸国でのカトリック教会の宣教の歴史、ましてやそれらの国にもあった殉教の歴史のことを知ったのは、この大事典が最初でした。このことは中国や朝鮮・韓国に関しても同じです。

ちなみに、ベトナムという国の歴史そのものについて概観を得たいとき、とても参考になっているのが『物語 ヴェトナムの歴史』という中公新書です(初版1997年、第8版2016年)。著者の小倉貞男氏(1933~2014)は、新聞記者としてベトナム戦争やインドシナ諸国の取材経験があり、後に大学でインドシナ近現代史、東南アジア国際関係を講じた方。紀元前の話からフランス植民地時代までのベトナムの国家形成と諸王朝の変遷について知らないことばかりが説明されている貴重な書です。

それによると、ベトナムの歴史は、中国との関係を一方の軸として、隣の東南アジア諸国(カンボジア、ラオス、タイなど)やフランス、アメリカなど近代欧米列強との関係をもう一方の軸として展開されているということです。このような見方自体、ベトナムと日本の歴史との比較という考察へと私たちを誘い込みます。中国の東の日本と、中国の南のベトナムが、中国との関係をどのように自分のものとしつつ、独立した文明を築き、さらに隣国や世界とかかわっていくことになったか、その歩みの違いを見ることで、日本という国の歴史も新たに照らされてくるのです。

アレクサンドル・ドゥ・ロード(1591~1660)

ベトナムのカトリック宣教の始まりには、日本に対する宣教の時代(キリシタン時代)との関係も出てきます。16世紀初めには日本での禁令を逃れてきた日本人キリシタンの共同体があったという事実です。しかし、本格的にはイエズス会宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロード(1591~1660)の宣教があります。ベトナム語のローマ字表記法の創始者の一人である彼は、母国フランスに帰ってベトナム宣教への支援と同志を求め、それに応えた司祭によってパリ外国宣教会が創立された(1664年)という歴史の波を生んでいます。

ベトナムの17世紀以降の諸王朝において、宣教師の活動は、たびたび宣教師追放令や禁教令による迫害を受けます。1630年の禁令に続く迫害では、現在ベトナムの殉教者聖人の筆頭にあげられるアンドレア・ジュン・ラク司祭(記念日11月24日)の殉教(1639年)がありました。その後、18世紀を通じても宣教師追放令や禁教令がたびたび出され、宣教師の逮捕・処刑があります。19世紀初め南北を統一したグエン朝、とりわけミンマン(明命)帝(在位1820~41)とトゥドク(嗣徳)帝(在位1847~83)の時代には、儒教による国家統一のために鎖国政策がとられ、いっそう激しい弾圧・迫害が行われ、おびただしい数の宣教師や信者の殉教がありました(フランス植民地時代になってからこれらのうちの主要な人々の列福がなされ、やがて四半世紀前の1998年に列聖されています)。

日本でのカトリック再宣教を主導することになるパリ外国宣教会の成立の大きな要因がベトナム宣教であったことが一つの驚きであり、ベトナムと日本のカトリック教会の歴史には不可分の関連性があることを知らされます。日本再宣教の始まりに名を残しているジラール師(1821~67)やプティジャン師(1829~84)が、19世紀半ば、ベトナムで激しい拷問や処刑を受けて殉教した宣教師たちと同世代だったことを知ると、彼らの日本宣教に対する志と覚悟の奥にあったものにも心が引き寄せられます。

 

出会いとともに歴史への眼差しを深めたい

日本だけがキリスト教禁止令による迫害と殉教の国ではなく、17世紀半ばにそれまで約100年におよぶ宣教が封じ込められてから、むしろベトナムへの宣教と殉教の歴史があり、さらに中国、朝鮮半島でも宣教と殉教の歴史がありました。東アジア諸国の文明理念とキリスト教との間の相剋がそこにあったことが読み取れます。日本の事例だけではなく、少なくとも東アジア全体との“文明の衝突”として近代宣教と殉教の歴史を総体的に見ていくことの必要性が痛感されます。それは、19世紀末からの欧米列強、世界とのかかわりのなかで、それぞれの異なった道を歩んでいる日本も含む東アジア諸国のありようと位置関係に対するとても重要な視点、視野になっていきます。

私自身が、カトリック教会を通じて出会った、ベトナムから来た人々との出会いは、広大な歴史を背景にした、摂理のたまものにちがいありません。その出会いを喜び、恵みと感じながら、ベトナム、日本、東アジア、そして世界、教会についての学びと省察を続けていきたいと思っています。

 


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