「出かけていく」への呼びかけ~~グエン・ヴァン・トアン神父(イエズス会)インタビュー〈前編〉~~


今回は、日本で働くベトナム人司祭、イエズス会のグエン・ヴァン・トアン神父にお話を伺いました。神学部で学ばれていたころに同級生だった、編集部メンバーとは、久しぶりの再会です。トアン神父の生い立ちに始まり、イエズス会入会への思い、そして、来日、司祭になって現在、山口県で進められている宣教と司牧の様子について、いろいろと伺いました。

 

生い立ち

――お久しぶりです。

はい、なんとか生きています。畑をやっています。

 

―― きょうはよろしくお願いします。まず、プロフィール的なことをお尋ねさせてください。生年月日は?

1982年10月1日に生まれました。若くはないですが、若いと言ってほしいです(笑)。幼いイエスの聖テレジア(リジュー)の記念日です。

 

――もちろん幼児洗礼でいらっしゃいますね。

はい。

 

――洗礼名は?

ペトロ。イエスのことを3回拒んだペトロです。

 

―― 代々、カトリックの家柄なのですか?

はい、おばあちゃんは信者です。おじいちゃんの兄弟は半分がカトリックですが、半分はカトリックではないです。カトリックでない場合は仏教が多いです。儒教を信奉している人もいますが。仏教が多いとはいっても、ほんとうに、仏教の信徒といえるのは、少ないと思います。

 

――おばあさんの世代からカトリックなのですか?

はっきりとは分からないのですが、おばあちゃんの世代の人、つまりその兄弟姉妹でも、カトリックではない人が多いです。あのころは子どもが多い時代、半分はカトリック、あと半分は仏教か無宗教ということが大半でした。

 

――出身の場所は、どちらですか?

ハノイ(ベトナムの首都)の南、ハナム省の一つの村です。ハノイの中心から私の(生まれた)村まで80kmぐらい。ハノイの南側からの入口にあたり、交通の要衝で、最近は大学や病院が移設されている地方です。生まれたのはこの村ですが、高校卒業した後、大学に行くために南部のホーチミン(旧サイゴン)に行きました。

 

―― ハノイとホーチミンの違いはありますか?

ホーチミン市の街並

全般的に結構違います。生活のあり方はずいぶん違いますし、人間の性格も違います。ハノイは政治的な都。ホーチミンは経済の中心、大阪のような町です。どちらも歴史があります。ハノイは1000年ぐらい。古いホウコウという町があります。観光の町です。

 

――自然環境的には?

ベトナムの北部は、日本と大体似ています。四季があります。南は梅雨と夏しかありません。中部の都市ダナン、フエの間に高い山があって、その山で南北の天候が分かれます。ハノイも蒸し暑いです。日本より湿度が高く、台風もよく来ます。

 

―― ベトナムは、全体的に暑い国という印象がありましたが、それだけではないのですね。ところで、大学では何を勉強されていたのですか?

農業を学びました。2005年卒業なので、もう20年ほど前のことになりますし、学んだことも忘れました(笑)。農業は、全然好きではなかったのです。途中でやめようと思ったのですが、他の分野もお金がかかるので、少なくとも大学を卒業するために勉強したというだけです。

 

教会生活、学生生活について

――子どものときの教会生活を、学生のときも続けていたのですか?

子どものときと同じような教会生活は大学に入るとしませんでした。その意味で、あまり敬虔な生活ではありませんでした。もっとも、子どものとき所属していた教会も、巡回教会でした。毎週日曜日にミサがあるわけではないのです。年に2回しかミサがありませんでした。その理由は、司祭がいなかったからです。1975年にベトナム戦争が終わり、社会主義の国になりましたので、教会に対しては厳しかったのです。司祭がいない間、教会の信徒さんたちはどうして共同体を守っていたかというと、毎朝、毎晩、ロザリオなどを祈ることでした。教会(聖堂)に集まってする人もいれば、家で祈る人もいます。それは今でも同じです。

子どものときも、家でロザリオを祈ることが主で、教会(聖堂)には行きたくても行けない。そこに集まれていても、1時間ぐらいと制限されています。しかしそのような中でも、祈りを唱えること、ロザリオを唱えること、十字架の道行を唱えることなど、子どものときは、家族で熱心に行っていました。そうすることによって自分たちの信仰を守ることができたのです。そのおかげで、大学生活の間も、自分がカトリックであるというアイデンティティをもち続けることができました。

 

――大学生活はどのように過ごしていましたか?

大学では、カール・マルクスの哲学を学ばされましたが、カトリック学生のグループもあって、そこで仲間たちと互いに信仰の分かち合いをすることができ、聖書を読んだり、悩みを聞いてもらったり、またそれぞれが学んでいることを分かち合うことができました。信仰を守るための力となったのです。

この学生たちを世話してくださったのが、イエズス会のブラザーでした。イエズス会を知るきっかけとなったのは、この学生の会だったと言えます。ここでは、毎年の黙想会がありました。8日間でなくて5日間の黙想会でした。この霊操の黙想に出たことによって、霊的な生活に惹かれるようになり、祈りって何だろうとよく考えるようになりました。祈りは神さまとの関係を築くこと、神さまと対話することであるということなどを考えるための経験を得て、祈りの生活が大切なのだということを学びました。

 

――その、イエズス会のブラザーというのは外国人だったのですか?

いいえ、ベトナム人のブラザーです。そもそもベトナムのイエズス会には、外国人はいないのです。(ベトナム)戦争以前、南ベトナムには、多くの外国人宣教師がいました。1950年にイエズス会も南の政府から学校教育の発展のために活動を願われて入ってきました。しかし、戦後、外国人宣教師は追放されたのです。それでも、その間にベトナム人の会員が育っていたのです。

 

イエズス会、そして日本への道

――大学がイエズス会の大学というわけではなかったのですね。

そうです。イエズス会の活動が大学のカトリック学生の会にあったと言いましたかが、それでも、大学で活動することはできないのです。大学の近くの教会がその場でした。教会で学生の会の活動(黙想会など)を宣伝して、人を集めるというかたちでした。ベトナムでは、教会の外では宗教活動ができないのです。

 

――やはり、霊操との出会いは、大きなものでしたか?

霊操は、教会の宝ですし、イエズス会にとって最も大切な財産であり、誇りです。大事にしていかなくてはならないものです。それが、私にとってイエズス会員としての歩みの出発点となっています。

 

――黙想を重ねていってイエズス会に入るまでは何年かかったのですか?

グエン・ヴァン・トアン神父

実は、もともとは教区司祭になろうと思っていたのです。それは、子どものときのある経験からでした。あのころ、先ほども言ったように、司祭がいなくて 年に2回しかミサがなかった巡回教会でした。信徒たちはこの数少ない機会に、司祭と話したかったのに、司祭はすぐに帰ってしまいました。子ども心に、どうして、この神父さんは、信徒さんと接しないのかなあと疑問に思っていました。そこで、信徒さんとの交わりを大切にする司祭になりたいな、という気持ちを抱いたのです。自分自身の召命の歩みを今振り返ってみて、あのころ司祭志願への種が蒔かれたのだな、と思うところです。

そこで、大学を卒業して、これからどうしようかと思ったときに、はじめはハノイ大司教区の司祭志願者となったのです。しかし、志願者として過ごす間は、落ち着きませんでした。不安の中にいました。どのような意味で司祭になるのか分からなく、結局一年で教区司祭志願者をやめました。そして南に戻り、一般就職をしました。

しかし、その中でも心がなかなか落ち着きません。神さまから「わたしのために働きなさい」と言われているような心地でした。そのとき、司祭になるのだったらイエズス会に入るしかない、という気持ちになりました。このような識別のプロセスは、結構長いものでした。

どうしてイエズス会に入ったのか、という質問は、今でもよく受けます。先ほど言ったように、学生のときに霊操に触れたことがきっかけだったと言えますが、それだけだったというふうに自分で納得できているわけでもないのです。ただ、他の修道会に入ることは考えられず、入るとしたらイエズス会だった、それは神さまが導いてくれたものだと思っています。

 

――こうしてイエズス会に入って、今度は日本管区にいらっしゃるのですが、それはどういう理由、経緯からだったのでしょうか。また、それまでに日本に対してもっていたイメージについては何かありますか?

日本に来る前、日本について知っていたのは、ドラマを通じてでした。一つは「おしん」です。「おしん」を見て、よく泣いていました。そこで、貧しかった時代の日本が描かれていました。歴史を学ぶと、日本という国はベトナムにひどいことをした国なのだということを教わりますが、自分の生まれ育った村と同じように、貧しい状況が日本にもあったことを知ったドラマでした。

もう一つ、「スチュワーデス物語」が大好きでした。その俳優も好きになり、日本に行ってみたいと思いました。

 

―― へぇ~、そうだったのですね。それがイエズス会に入ってから実現することになるわけですが、それに至るまではいかがでしたか?

イエズス会では、哲学を学んだあと中間期というのを過ごします。イエズス会の特色です。修練2年、そして、哲学課程の1年が終わったあと、その中間期についてのオリエンテーションがありました。自分の同期は18人いました。その中で、国内で中間期を過ごす人もいれば、海外に出る人も出てきます。そのことを、哲学課程の最後の1年の間に識別するのです。バチカン放送で働いてみるとか、ローマで将来神学教授になるための勉強をするとか、あるいは他国で宣教活動をするとか。私の場合、その識別の過程で心の中に出てきたことばは、「出かける」でした。

「出かけていく」という呼びかけが、心の中に強く響いたのです。それを出発点として、どこに出ていくかを考えたとき、日本、台湾、タイ、ローマ、フランスなどさまざまな可能性が考えられました。その中で、どうして日本に行きたいと思ったかについては、少年時代に見たドラマの影響があったのかもしれません。また、聖フランシスコ・ザビエルのことも好きで、彼が宣教した国としての日本に興味が湧きました。

どうして日本に来たか――。結局、一つの理由だけではないのです、さまざまなことがありました。そして、実際に日本に来るとなると、家族から離れることにもなります。母親の世話はだれがするかとか、さまざまなことを考えなくてはならなくなりました。それらの問題を乗り越えて、日本に来たことについては、やはり一つの理由だけではないのです。

 

――お聞きしていると、イエズス会に入ったことにも、日本に来たことにも、神さまが動いている、神さまが神父さんを動かしているのだと、感じます。

ですから、なぜ日本に来たのですかと聞かれるとき、私は、「あなたに会いに来たのです」と答えています(笑)。神さまからの派遣で来ているのです。日本が恋人です!

(2023年6月30日 zoomにて収録    聞き手:AMOR編集部)

後編に続く)

 


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