⑶ 「信仰を黙っていたら、わたしたちは死んでしまいます」


「信仰を黙っていたら、わたしたちは死んでしまいます」

 ――ロシアの巡礼団、シリアのキリスト教徒の証しに学ぶ

2021年、モスクワでカトリックの信者がシリアの医師スレイマン氏に出会い、この出会いからシリア巡礼の計画が生まれました。現在、プーチン政権によるウクライナ軍事侵攻が続く中でも、計画は立ち消えに終わらず、今年、4月27日から5月3日にかけて、モスクワ・神の母大司教区パーヴェル・ペッツィ大司教に引率された巡礼団がシリアの聖地や修道院を巡りました。以下は5月14日、モスクワの司教座本部で行われた巡礼参加者による(モスクワ以外からの参加者はズームで)感想の分かち合いの報告です。

              (出典・シベリアカトリック新聞 訳・大井靖子)

 

「驚嘆しました、感動しました…」――巡礼に参加した人びとは、シリアで見聞きした信仰の証しを口々にこう表現している。戦争で(2011年に始まったシリア内戦-訳註)破壊された国で、巡礼団はシリアのキリスト教徒たちが不可能と思えることを可能にしている姿に接し、ペッツィ大司教自身、「キリスト教は、どんな状況でもなにかを生み出すことができるんです」と驚嘆され、一例としてトラピスト会の、もう若くはないシスターたちの小さな共同体が、内戦のさなかに、ゲストルームをつくったことに言及された。そして、「希望をもてないような状況の中で、ゲストルームを思いつくことができるのは生き生きした希望をもつ人たちです」とおっしゃっている。

希望は、村人といっしょに典礼に参加したマアルーラでのこと、村の若者や子どもたちが祈りに深く潜心している様子から巡礼団の心にも伝わった。ペッツィ大司教は、ある参加者の「わたしたちはシリアの人のために何かをしよう、助けてあげようと思っていましたが、実際のところはシリアの人びとからもっと多くのものをいただきました」という感想を紹介し、「そうです、わたしたちは前へ、ひたむきに前へ、キリストの信仰をもたらすように背中を押されたのです。わたしたちは信仰と希望の大きな証しをいただきました」とおっしゃった。

シベリアカトリック新聞

そもそも、この巡礼の計画が生まれたのは2年前のこと、モスクワを訪れていたスレイマン医師から聞いたシリアのキリスト教徒の生活に興味を惹かれたからだった。巡礼者のひとり、アナスタシアは「ええ、わたしたちはシリアの人たちの、信じられないような信仰体験を聞きましたが、現地を訪れ、彼らにとって信仰を証しすることは呼吸と同じことだと納得しました」と語る。彼女の話では、シリアのさまざまな教派のキリスト教徒(アルメニア正教会、メルキト・カトリック教会、東方典礼カトリック教会、プロテスタントなど11の教派がある-訳註)の状態が深刻化した原因は、内戦の影響だけでなく、イスラム教徒が多数派を占める国でキリスト教徒は少数派(総人口の10%-訳註)であることにある。「わたしたちはシリアのキリスト教徒たちの、他者への思いやりに驚嘆させられました。彼らはわたしたちに、戦後の荒廃した社会と、経済危機と、大量の移民という条件の中で、いちばん大切なことは人間性を保つこと、それは、ヒューマニズムという抽象的な意味ではなく、神の創造物として人間の尊厳を保ち、キリストとの出会いを求めることです、と話してくれました」。そうした他者への思いやりは、サレジオ会修道士たちの社会プログラムにも現れていた。修道士たちは、小学生や中高生には学ぶチャンスを、成人には賃金の高い国際機関で働くために技能向上のチャンスを得られるように尽力していた。それは、人びとを貧困から救い出し、家族を養い、人間としての尊厳を保てるようにという願いからである。

ダマスコ(ダマスカス‐訳註)に向かっていたサウロが回心した聖地を訪れた巡礼団には、もう一つ驚くべき証しが待っていた。この聖地には、内戦中、40ものテロリストグループに包囲されながらも、ただひとりの聖職者として留まり、さまざまな教派のキリスト教徒の相談にのっていた司祭がいた。司祭は休む間も惜しんで水と食糧を住民に届けていたが、あるとき、テロリストの攻撃を受け、殴られ、殺すと脅かされた。司祭は、それにもひるまず住民を助け続けたのである。すると、1年後、テロリストのひとりが、住民に分けてやるようにと言って、大量のパンを運んできたのだった。「主はこのテロリストの心に触れてくださったのですね」―このエピソードを巡礼者たちに聞かせてくれた修道士が言った。アナスタシアは「シリアのキリスト教徒の方たちの証しには引き込まれました。生き生きと充実した証しにあふれた、この国にいると、大多数の人びとがイスラム教徒であることを忘れてしまいそうです。わたしたちはシリアのキリスト教徒から大いに学びたいと思いました」と感想を述べている。

ベラルーシから巡礼団に加わったアレクセイ神父は、サウロが回心し、アナニアがダマスコの自分の家で洗礼を授けた場面を、当然のことに、これまで何回も読んできた。しかし、この場所に来て、ダマスコのキリスト教徒にとって、自分たちが恐れていた迫害者サウロを受け入れることがどんなに困難であったかを実感したという。そしてアナニアがどんなに神を信頼していたかを実感したという。「神はアナニアの助けでサウロに追いつき、今まで敵対していた二人を兄弟にしてくださいました…。心から神を探し求め、わたしの人生で神が介入してくださることに気づくこと」―アレクセイ神父は聖地で志しを新たにし、巡礼の感想をつぎのように記している。「特に、わたしが感動したのは、わたしたちはみんな聖体のうちに、ひとつのキリストをいただいているということです…。キリストは時間と距離を超えてわたしたちを結びつけ、わたしたちの友情といのちを築く土台となろうとしてくださっているのです」。

「シリアにはキリスト教の教派が10以上あるのに、みんな、キリストのひとつの教会のように、ひとつにまとまって生活しています」と語ったのはタチアーナである。数ある感動的な出会いの中のひとつとして、彼女が取り上げたのは、戦闘機に簡単に見つけられてしまいそうな峡谷の、空爆をまぬがれた村の一画で、高らかに賛美を唱え、太鼓を響かせながらキリスト教の行列が行われていることだった。驚いて見ている巡礼者たちに、行列に並んだ人たちは「自分たちの信仰を黙っていたら、わたしたちは死んでしまいます」と言った。「少数派で、いつもいのちの危険にさらされている彼らです。彼らが信仰を保ち続けることができるのは、彼らにとって、信仰とは人生だからです。わたしたちはそれをこの目で見ました」とタチアーナは感想を分かち合った。

今回の巡礼のまとめ役のひとりで、シリアには以前も行ったことのあるマリーナも、「感動しました。生活は半年前よりはるかに厳しくなっているのに、信仰はもっと強くなっています」と語った。マリーナの心をいちばん打ったのは、マル=ムーサ(エチオピアの聖モーセ)シリア・カトリック修道院での出会いである。砂漠の、高い山の上にある小さな修道院は、「文明を離れ、一致を感じとり、単純な仕事をする」ために、キリスト者だけでなく、イスラム教徒にも開放されている。

ペッツィ大司教は宗教間の交わりというテーマを引き継いで、「シリアでの対話は、現実離れした課題ではなく、生と死という切実な問題であることに驚かされました。シリアでは、すべての人が交わりを求めています。キリスト教徒がほかの宗教の、すべての祝祭に参加することにも驚嘆させられましたが、人びとにとって祝祭はいのちだからです。交わりは他人のための義務感からではなく、心から交わりを求めることによって創造的な人間関係を築くことができるという、すばらしい例ですね」と結んだ。

なお、神の母司教区のサイトによると、巡礼に出発する前に、シリアのキリスト教徒のために、アレッポの地震被害者への援助と、ハバブの街灯設置用に、いくつかの教区と共同体と個人から寄付を募り、巡礼中に必要としている人たちに渡された。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

four × five =