レバノンのキリスト教諸教派


石川雄一(教会史家)

キリスト教は主に、カトリック教会、東方教会、プロテスタントの三系統に分類できます。それらをより細かく分けるならば、東方教会は正教会と非カルケドン派に分けることができ、さらに正教会をロシア正教やギリシア正教、ジョージア正教などと細分化することができます。プロテスタントもルター派やカルヴァン派、メソジストなどに分けられますが、それではカトリック教会はどうでしょうか。

他の教派と異なりカトリック教会は一種類だと思われがちですが、実は、カトリック教会にもいくつかの種類があります。つまり、一般的にカトリック教会といって想起されるローマ・カトリック教会の他にも、ウクライナ・カトリック、シリア=マラバル・カトリック、カルデア・カトリックなど、教皇首位権を認めながらも、ローマとは異なる典礼と伝統を有する教会があるのです。これら、ローマ・カトリックとは異なるカトリック教会のことを、東方カトリック教会や帰一教会などと呼びます。

イスラエルの北に位置するレバノンは、そんな東方典礼カトリック教会の信徒が多い国の一つです。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの三宗教が交差する地であり、古代から貿易の要衝として発展してきたレバノンには、複雑な歴史が発展させてきた独自の教会が併存しています。外務省のホームページによると、レバノンにはイスラーム諸派も含めて、18の宗派が混在しているそうです。そこで今回は、レバノンにおけるキリスト教諸派の歴史を概観してみます。

 

ヤコブ派

カトリック教会と東方正教会が分裂した1054年の東西大シスマは、キリスト教が最初に経験した大分裂ではありませんでした。ジョージア特集でも少しふれたように、451年のカルケドン公会議で採択された信条の受容を巡り、教会はカルケドン派非カルケドン派に分裂しました。論争の詳細は難解で複雑な神学論争史を含むために省略しますが、いわゆるカルケドン信条を巡る対立は、西ヨーロッパよりも東方世界で盛んになります。

6世紀、カルケドン派を擁護するビザンツ帝国のユスティニアノス大帝は、非カルケドン派を迫害しました。それを逃れてアンティオケイア(古代シリアの都市。現トルコのアンタキヤ)にたどり着いた非カルケドン派の主教ヤコブ・バラダイオスは、独自に非カルケドン派のアンティオケイア総主教区を設立します。使徒言行録にも登場するアンティオケイアは、ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドレイア、イェルサレムに並ぶ重要なキリスト教都市でしたが、そこでヤコブ・バラダイオスは独自に非カルケドン派の総主教となったのです。こうして成立したのが、ヤコブ派の通称で知られるシリア正教会です。

ヤコブ派は地元の非カルケドン派から支持されますが、カルケドン派の東方正教会からは攻撃を受けます。11世紀に十字軍を通じてカトリック教会が東方に進出すると、東方正教から迫害を受けるヤコブ派は、東方正教と対立するカトリック教会を「敵の敵」として歓迎しました。言うまでもなくカトリック教会はカルケドン派ですが、長年に渡る正教との対立から、ヤコブ派はカトリック教会を潜在的な味方として友好的に迎え入れたのです。それ以来、ローマ・カトリック教会とヤコブ派は数百年に渡って、教会一致に関する協議を重ねます。

18世紀、カトリックの影響を受けたヤコブ派の総大主教ガルヴェーは、1775年に公にカトリックの信仰を表明し、1783年に教皇ピウス6世からの承認を受けました。しかし、当時の支配者であったオスマン・トルコは、ガルヴェーを通じてカトリックの、ひいては西欧列強の影響力が拡大するのを恐れ、親カトリックのヤコブ派を弾圧しました。そこでガルヴェーは、仲間と共にレバノンに亡命し、ベイルートを拠点にシリア・カトリック教会を設立しました。今日でもシリア・カトリック教会のアンティオケイア総大主教座は、トルコのアンタキヤやシリアではなく、レバノンの首都ベイルートに置かれています。

 

マロン派

ヤコブ派に代表される非カルケドン派はシリアで影響力を拡大し、517年には350人ものカルケドン派修道士を虐殺するなど、現地のカルケドン派を圧迫していきました。7世紀、イスラームの拡大によりビザンツ帝国はアンティオケイアを喪失し、以降、カルケドン派のアンティオケイア総主教は名目的な存在としてコンスタンティノポリスに留まるようになります。

ですが、現地のカルケドン派信徒からすると、アンティオケイア総主教が遠いコンスタンティノポリスで暮らして不在では困ってしまいます。そこで現地の人々は、マロンという名の修道士を独自にカルケドン派の総主教として選出し、マロン派を形成しました。つまり、この時点でアンティオケイア総主教座は、非カルケドン派のヤコブ派、現地のカルケドン派のマロン派、そしてメルキト派とも呼ばれる帝都にいるカルケドン派の三派鼎立状態となったのです。

他派やイスラーム勢力から攻撃されたマロン派は、迫害を避けてレバノンの山中に逃れました。十字軍の時代に入ると、上述のヤコブ派と同様に、カトリック教会との再合同の議論が始まります。そして、ヤコブ派よりもずっと早い13世紀の1216年、教皇インノケンチウス3世はマロン派を承認し、カトリック教会との合同が果たされました。対抗宗教改革の時代にあたる16世紀には、ローマにマロン派の神学校が建てられ、東方に関する研究が盛んになります。19世紀には、マロン派に対する虐殺事件が勃発し、西欧列強の圧力を受けた支配者のオスマン・トルコは、自治領レバノンの形成を強いられました。

今日、レバノンのキリスト教で最も数が多いのはマロン派です。レバノンの大統領は慣習的にマロン派が占めることとなっているなど、政治的な影響力もあります。

 

その他

ビブロスの聖ヨハネ・マルコ教会

ここまでの概要で推察できるように、レバノンのキリスト教で重要な役割を果たしてきたのが、アンティオケイア総主教座でした。これまでに、非カルケドン派のアンティオケイア総主教に従うヤコブ派、カルケドン派の独自のアンティオケイア総主教を擁立したマロン派、そして、帝都にいる名目上の総主教に従うメルキト派が登場しました。「メルキト」とは、王様といった意味の言葉であり、彼らはビザンツ帝国の権威に忠実な人々でありました。

しかし、15世紀にビザンツ帝国が滅亡すると、主君を失ったメルキト派は動揺し、カトリック教会の一致を目指す親カトリック派と正教会としての独自性を保とうとする反カトリック派に分かれます。ヤコブ派の時と同じように、西欧の影響力拡大を警戒するオスマン・トルコは、親カトリック派を迫害します。18世紀、迫害を逃れた親カトリックのメルキト派はレバノンへ逃れ、そこでメルキト・カトリック教会を設立し、アンティオケイア正教会となった反カトリック派と分裂しました。

他にも、レバノンには多くのアルメニア人が住んでおり、非カルケドン派であるアルメニア使徒教会の存在感も無視できません。貿易が盛んであったレバノンには古くからアルメニア人コミュニティがありましたが、第一次世界大戦中にオスマン・トルコがアルメニア人に対するジェノサイドを行うと、多くのアルメニア人がレバノンに逃れました。

 

ここまでレバノンのキリスト教諸教派について述べてきましたが、レバノンにはドゥルーズ教というイスラーム系の独自の宗教もあり、宗教的多様性が目立つ地域です。この記事を通じて、様々な大国に翻弄されながら、独自の文化と歴史を重ねてきたレバノンの歴史に興味を持っていただければ幸いです。

 


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