関野美穂(日本近現代文学研究者)
「日本キリスト教芸術センター」は、遠藤周作先生が、遠山一行先生らと共に創設した、「キリスト教作家たちの勉強会」である。(詳しくは「遠藤周作氏と日本キリスト教芸術センター」を参照されたい。)
僥倖とでも言うべきか、私はその会の末席に加わることが出来た。詳しい経緯はいまだによくはわからないが、私が高橋たか子を研究しているということを遠藤先生が誰かから聞き、会へ推薦してくれたらしい。会の活動の最後の10年ほどであったが、遠藤先生の謦咳に接し、サロンで語られる様々な人々の話を聞くことができたのは、今でも貴重な財産である。
原宿のマンションの一室が会の活動拠点であった。そこには遠藤先生の書斎もあり、先生が本当に大切にしていた、マザー・テレサから贈られた絵はがきも飾られていた。イエスの福音を、日本にふさわしい形で根付かせようと心の底から願い、一つ一つの活動を行ってきた遠藤先生の、この会に対する並々ならぬ思いが、そこに顕われているような気がした。
私が会に参加するようになってしばらくして、遠藤先生は体調を崩し、会に参加することはなくなったが、主の留守を守るかのように、他のメンバーによって活動は続けられた。特に、毎回必ず、遠山一行先生・慶子先生ご夫妻が参加し、ホスト役となって、会を支えていた。
月に2回程の通常の集まりの他に、年に数回イベントも開かれ、特に、イースターの頃には「卵の会」、クリスマスの頃には「ニワトリの会」が開かれていた。こうしたイベントの折には遠山邸に集まり、音楽の演奏などの催し、デーケン神父さんの手品の披露、プレゼント交換など、年代も分野も超えたさまざまな人の交流があり、堅苦しさのないざっくばらんな楽しいひとときを過ごせる会であった。その様々な思い出の中で、今でも忘れられないのが、私がその会で目にした、遠藤先生の最後の姿である。
亡くなる2年くらい前のことだと思う。入退院を繰り返していた遠藤先生が、突然、という感じでその会に現れた。車いすに乗って現れた遠藤先生の顔は蒼白で、お元気だった頃の颯爽としたダンディな先生、お洒落な先生の姿しか知らない私には、ただただショックで、私は呆然としてしまった。
その場にいたのは20分くらいだった。遠藤先生はそこにいた全ての人の顔を見ようとしていたと思う。家族の方が少しお話をされて、すぐに遠山邸を後にした。
後で考えてみると、苦しい闘病生活の中、車で移動し、数十人の人の前に出るなどということはものすごく体力も気力もいることで、とても辛い大変なことだったはずである。だから、遠藤先生が車いすで、病を負った体で、大好きなお酒も、それどころか会話もままならないなかで、それでもその場に現われたことには、先生の強い思いや意志があったにちがいない。
「日本キリスト教芸術センター」の活動は、遠藤先生が生涯をかけて求めた、日本にイエスの福音を告げ知らせたいという思いの込められた活動の一つであった。またそこには、若いときからの仲間がおり、自分の考えに賛同してくれる人々がいた。そうした自分にとって大切な、中核といってもよいほどのその会を、自分の不在の間も続けてくれているメンバーへの感謝と、会を頼むという思いから、体にむち打って直接顔を見せに、言葉は交わせなくても皆に直接会うためにやってきたのではないかと思う。
会の創設メンバーでもある上総英郎先生は、遠藤先生のその姿に胸打たれ、「遠藤さんは立派だ。本当に凄い人だ。」とその折のことを語っていたが、おそらくあの場にいたメンバーはみな、遠藤先生のその姿を決して忘れていないと思う。遠藤先生の追究したもの、日本のキリスト教や、キリスト教文学に対する思いは、時を超え、形を変え、様々に受け継がれていくのだと信じたい。
私が触れた最後の遠藤先生の姿を遺しておきたいと思い、ここに記した。