キリストの香りを放つ コリントの信徒への手紙 二 2章14節~17節


佐藤真理子

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めには誰がふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

(コリントの信徒への手紙 二 2章14節~17節)

これまで何度か、私はキリストのようだなと思う人に出会ったことがあります。

そういった人々の共通点は非常に愛情深いことです。何かに縛られない自由さがあり、関わるたびに大昔からの深い知り合いのように暖かい愛を注いでくれる人に出会うと、キリストのようだと感じるのです。

そのうち一人の方は既に召されましたが、そのとき寂しさを感じたと同時に、残された者として、今度は私たちがキリストの香りを放って生きることを託されているのだと感じました。

宗教的な人は多くいます。しかし、宗教的な人が必ずしもキリストのようかというと、そうではありません。いくら車庫に長くいても人は車にはなりません。それと同様に、人は教会に行っているからと言ってキリストのようになるわけではないのです。寧ろ、教会にいる週一度の二時間ほどの時間よりも、それ以外の膨大な時間が、その人の生き方を明確に示しています。

 

ルカの福音書10章には良きサマリア人の例えがあります。強盗に襲われて倒れていた人を助けたのは、祭司でも祭司の家系であるレビ人でもなく、当時差別されていたサマリア人でした。先日聞いた聖書のメッセージで、祭司はもしかして、宗教的な働きのため神殿へと急ぐあまり、倒れていた人を見捨てたのかもしれないという話を聞きました。

思い返せば、私も教会の働きのために日曜日こそ余裕がなくなっていた時期がありました。それこそ、朝、教会に礼拝奉仕のために向かうとき助けが必要な人を見つけたら、当時の私はそれを横目に電車に乗ってしまったかもしれません。

非常にパラドクシカルですが、似たようなことは至る所で起こっているのではないかと思います。

キリストのように生きることは、律法主義的に、宗教的な決まりに縛られて生きることではありません。そのようにすると、人は余裕がなくなったり人を裁いたりして、優しさを失うことがあります。そのようにしてキリスト教に忠実になろうとするあまり、いつの間にかキリストから遠くなってしまうのです。

キリストのように生きることは、自由に、愛のために生きることです。人に優しく生きることです。

 

洗礼を受けて長年たつ人の中には、時に宣教が世に求められていないような気がする人もいるのではないかと思います。

しかし、この世の中がどれほど優しさに飢えているか、愛に飢えているか私たちは本当のところまだ気づけていないのかもしれません。多くの人が、人の優しさ、人の温かさを求めています。そのような人々に優しさを注いで生きることが宣教であり、キリストの香りを放って生きることなのです。人に愛を注いで生きること、思いやりをもって優しく接すること。これだけがキリストが示した戒めであり、聖書の示す最高の律法です。このことが他の全てを全うするのです。

 

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に対して悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。

(ローマの信徒への手紙13章8~10節)

これが全てに最優先するキリスト者の原則なのです。これに勝る原則は一切ありません。

出会う人、関わる人に優しさを示すこと。これが私たちをキリストの香りを放つ人にするのです。キリストは私たち一人ひとりの中に生きています。その内なるキリストを示して生きることが宣教なのです。この世の中は人の温かさを必要としています。

キリストのように生きて、優しさを必要とする身近な場所に、暖かい光を灯しましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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