「アジア」という言葉に込められた思い~~AMOR流リサーチ


「アジア」という普通のイメージ
そぼ
心の視野を広げようと、今回は「アジア」というテーマを提示するのが目的のようだね。
りさ
アジアというと、真っ先に何を思いますか?
そぼ
やっぱり、ついこの間あったサッカーの「2022年FIFAワールドカップ カタール大会」かな。アジアの中から何か国という大陸別の区分で、日本は数えられるから。東アジアから西アジアまでずいぶんと広大な地域がありつつ、数か国しか本大会に来られない、サッカー後進地域のイメージがあるね。
りさ
でも、オーストラリアもアジア枠に入っていませんでしたか?
そぼ
そう。人種という言い方はあまりよくないけれど、アジアというと黄色人種、という風に考えていると、オーストラリアは白人の国のイメージだから、ちょっと違和感があるよね。それに西アジアのイスラム諸国、アラブ諸国も、アジアというのとは別な枠のような気がするし。
りさ
そうですね。アジアといっても、何か共通のものがあるのか不思議です。もう人種とも、民族とも、宗教とも一定ではない、それ自体が多種多様な世界ですね。あくまでも今は世界の諸国を区分するときの大きな便宜上の枠にすぎなくなっているようですが、それでも下位の区分(西アジア、中央アジア、南アジア、東南アジア、東アジア)とともに大体は落ち着いている大陸概念ではないかと思います。

 

「アジア」ということばの始まり
そぼ
そもそも「アジア」ということばにはどういう由来があるの?
りさ
今回は、平凡社『世界大百科事典』(改訂版2005年)の項目「アジア」(加藤祐三)を軸に、適宜『新カトリック大事典』や『ブリタニカ』なども参照してみました。

「アジア」(Asia)という単語は、一般には古代アッシリア語で「日いづる所」すなわち「東」を意味するasuに由来するという説が紹介されています。諸説あるようですが。

もとはギリシア人の世界像にあり、ギリシア人の本土(ペロポネソス半島とエーゲ諸島を指す)「エウローパ」に対して、その東のほうを漠然と指す言葉として「アジア」がホメロスの時代には使われていたようです。

そぼ
「日いづる所」……どっかで聞いたような言葉だね。いずれにしても、「東の方」という意味なのか。それも明らかにギリシア人中心の見方に思えるけど。
りさ
そうですね。やがて紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスでは、世界像が広がり、北アフリカが「リビア」と呼ばれ、「アジア」はペルシアまでギリシアより東の方の地域概念となっていきます。
そぼ
リビアってアフリカを指す言葉だったのか!
聖書に出てくる「アジア」(小アジア)
りさ
そのギリシアから見て東の方というのは、今のトルコにあたる黒海と地中海の間の大きな半島にあたります。よく歴史地図で「小アジア」と呼ばれる地域で、アレクサンダー大王の帝国が滅亡したあと、シリア中心に興ったセレウコス朝がこの地を支配したときにアジアと呼ばれ、旧約聖書(続編)のマカバイ記で言及されます。

新約聖書、特に使徒言行録が記すパウロの宣教旅行で言及されるアジアや黙示録で言及される当時のアジアは、ローマ帝国の行政区分の中のアジア属州で小アジアのことを指す場合もあれば、さらにその沿岸地域を指すアジアのこともあったようです(『新聖書大辞典』参照)。

そぼ
なるほどー。

 

キリスト教の始まりの地
そぼ
いずれにしても、ヨーロッパ、アジア、リビア(アフリカ)という三地域概念は、ギリシア・ローマ時代からのもので、その中で、キリスト教も形成されていったわけだ。
りさ
そういう意味では、アジアへのキリスト教の宣教は最初から、というより、エルサレムをどう位置づけるかわかりませんが、エルサレムの西側の小アジアからローマに向かう宣教にしろ、シリア、ペルシア、インドに向かう宣教にしろ、アジアへの宣教はキリスト教の歴史とともに始まっている、と考えるべきかもしれません。
そぼ
そうか、そう考えると、アジアとキリスト教というテーマも、のっけから考え直さなきゃならないのかも?
りさ
別稿で紹介されている、教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『アジアにおける教会』でも、アジアでの着実な宣教の歩みが思い起こされています。

1世紀半ばに南インド(伝承)、3~4世紀に東シリアのエデッサ、3世紀末に世界で初めてキリスト教を国教としたアルメニア、5世紀の中国、唐王朝(618~907)時代のキリスト教の隆盛、13世紀モンゴル、元朝中国などです。

ただ13世紀の有名なマルコ・ポーロのいわゆる『東方見聞録』(原題『世界の記述』)では、黄金の国ジパングとして日本のことが紹介されているのですが、「アジア」という用語はないそうです。

そぼ
へー。

 

大航海時代に今の「アジア」に。そして「亜細亜」
りさ
結局、大航海時代の始まり、特にポルトガル人のマカオ居留の開始(1511)とともに16世紀の前半に作られる地図から、ASIAという語が現代とほぼ同じような地域総称になっていきました。
そぼ
大航海時代にアメリカ大陸も認知されるようになったわけだから、今のようなヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカという区分になっていったんだね。
りさ
ところで、イエズス会の宣教師マテオ・リッチ(1552~1610)の世界地図を改訂し、宣教師を保護した中国(明)の官吏であり、学者でもある李之藻(りしそう、1565~1630)が印刷した世界地図『坤輿(こんよ)万国全図』(1602)には「亜細亜」という漢字表記が登場します。
そぼ
大東亜戦争のときの「亜」だね。
りさ
さて、日本には、このリッチの地図の漢訳版(1645)『万国絵図』が一方で伝来し、他方、オランダとの通商から、オランダ人ヨハン・ブラウ(1571~1638)の作った「地球図」(1648)も入ってきます。そこに、1708年、日本に来たイタリア人司祭シドッティ(1668~1714)の供述を合わせて作られた地図が、日本人の地理の知識を作っていきます。
そぼ
そこかしこに、宣教師や司祭が登場するんだね。
りさ
これら日本に伝来した世界地図では、「亜細亜」という表記も一緒に入ってきます。面白いことにシドッティを尋問した新井白石(1657~1725)は自らの地理書『采覧異言』(1713)で、世界地理をヨーロッパ、アフリカ、アジア、南北アメリカに区分して解説しています。その中で「アジア」という片仮名表記も行っています。
そぼ
18世紀初め、300年前から、ほぼ世界像は同じなんだね!

 

日本人の「アジア」への思いの陰影
りさ
江戸時代は、こうして、「亜細亜」と「アジア」が併存していました。ところが、明治になると「亜細亜」が主流となり、戦後1950年以降「アジア」が主流となり、現在に至るということです。
そぼ
そこには日本人の「アジア」観の変化が影響しているのかな?
りさ
そのようです。平凡社『世界大百科事典』で加藤祐三氏がそのあたりを説明してくれています。

明治時代は、さまざまな新しい概念に漢字熟語を作り出していく時代で、漢字の「亜細亜」が優先され、このころの日本のアジア進出にあたり「振亜会」(1877)、改称して「興亜会」(1880)、「亜細亜協会」(1883)、「東亜同文会」(1898)などの団体名称に「亜」が盛んに使われているとのことです。

このような「欧米によるアジア進出に対抗した〈興亜〉の流れと、日本の欧米化を願う〈脱亜〉の流れは」近代日本において対立する二大潮流であった、としています。どちらも「亜細亜」を使い、やがて「東亜」「大東亜」の思想になっていくと……。

そぼ
何だかきな臭くなってきたね。「アジア」「亜細亜」はともかく、近現代の日本の状況と日本人の意識の陰影を微妙に映し出す言葉であり、文字のようだね。
りさ
「東洋」ということばが文化や精神性を表すときに使われるのに対して、「亜細亜」は地政学的な言葉として、その後の政治・経済の分野で流れていく言葉になります。

戦後、1950年代以降は、アジア諸国が植民地支配から脱し、独立していく時代、「アジア」は「アフリカ」とともに新興国世界、平和勢力の一面となっていきますが、その後の展開はご存じのとおりです。

そぼ
東亜とか大東亜といった見方や意識は今ではすっかりなくなっていると思うけれど、「アジア」について、今の日本人はどんなことを感じているのか……といったところだね。

ともかく、明治以来から太平洋戦争まで日本が歩んだ道を象徴しているのが、亜細亜やアジアだということはわかったような気がするな。戦後から今にかけて、それがどうなっているか、考えなくては、と思わされたよ。アジアン・レストランが立ち並ぶ街を逍遥しながら考えてみようかな。

 

(調べ・構成:AMOR編集部)

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

20 − twelve =