佐々木洋一(札幌市)
近隣のスーパーにあるフラワーショップ。店員は、大きな瞳が可愛い若い女の子だ。彼女が作るアレンジや花束は色合いのセンスも良く、彼女のかわいらしさにも魅せられて買いに行く。そんな自分に「おじさん丸出しだなあ」と苦笑する。彼女は花が好きで、仕事もおしゃれも今風の若者らしく、毎日を楽しんでいるのだろうと思っていた。
買い物の折り花について質問すると、にっこり笑って素朴な人なつっこい話し方で答えてくれた。正社員として店舗責任者を任せられていることも知った。以来他の客がいなければ様々な話をするようになった。父親は実父でないこと、母は病弱で、今年父も大病を患い収入が途絶え、住んでいた家を手放して近郊の町にある父の実家に移ったことも聞いた。関わりをもち、話をするまで彼女の背負っているものに気付かなかった。そんなある日、彼女は笑顔で私に言った。「お父さん、お母さんが安心して暮らせるように、私、家を買いました。」二十代の女の子が、自分の楽しみのために働き、なおかつ親の援助を求めるというのはよく聞くところだ。しかし、この子は親のために長いローンを組んで家を買ったのだ。私は亡き親にそこまでしようと考えたことなどなかった。その健気さに、店頭にいることを忘れ涙があふれた。モーセを通して神が語られた言葉「父母を敬え」を、彼女は体現していた。
木の上のザアカイを一目見て声をかけたイエス。罪の無い者だけが石を投げなさいと言って女性にゆるしを与えたイエス。一言でマタイを呼んだイエス。イエスの目は外面からだけでは測ることのできないその人の背負っているものや、本質を見抜いておられた。イエスは神だからと言えばそれまでだが、私たちと同じ「人となられた」方だ。ナザレの村で父亡き後、大工として母との暮らしは決して楽なものではなかったであろう。神としての威光によってではなく、インマヌエルとして人々と共に苦しんだことから得た眼力なのだろう。
街を歩いているとすれ違うたくさんの人。皆それぞれに重荷を背負っているのに、見かけや身なりで簡単に人を判別し決めつけ、関わりを避け、共に担おうとしない私の中に、イエスと同じ目は無かった。
新居のお祝いを持って教えられた家を訪ねた。帰り際、母と一緒に私を見送る彼女は、初雪の降る中、満面の笑みで大きく手を振っていた。幸せあれと祈らずにはいられなかった。