特集53 感謝の気持ちを伝えたい


「ありがとう」と「すみません」

「ありがとう」の気持ちを「感謝」という熟語で表すのはどうしてなのか、前々から気になっています。一般的には、ここでの「謝」は「礼を言う」の意味で(謝意・謝礼・謝恩などの場合の謝)、「感謝」はその気持ちをもつことだと、あっさり説明されますが、「謝」が「わびる、あやまる」(謝罪・陳謝)を意味する字でもあることのほうに、心を引き寄せられます。礼を言うときに「すみません」と言うこともあるからです。

この「すまなさ」の感覚に何があるのか。「礼を言うこと」と「謝ること」は本質的に関係しているのか、偶然なのか。そんな言語心理に切り込む研究も最近はあるようです。そして、このことは、キリスト教を考えるためにも、実に重要な観点でもあります。その信仰生活は、ある意味で、神に対する「すみません」と「ありがとう」の営みといえるからです。

この3月、東日本大震災の記憶を呼び戻し、10年の経過と現在を問いかける時となっています。コロナ禍への対処に迫られて1年もたったという重い実感がここに重なります。感染拡大への防備と社会の平常化を求める気持ちの狭間で、苦しい状況がなお続く中、わたしたちの中では、「感謝」というテーマが浮かび上がっています。ことばの心理に関心も向けつつ、日常の出来事や身近な人とのかかわりから生まれてくる、「ありがとう」の気持ちや「ありがたさ」の実感をことばにし、変わることのない大切なことを見つめていきたいと思います。

「感謝の手紙」のような形式の投稿も依然、歓迎します。個人的なことを人目につく場に?と思われる向きもあるかもしれません。しかし、実際には、相手に直接言えないことやその人が亡くなっていて、もう言えないということもたくさんあるでしょう。そのようなことに含まれている真実や意味を掘り起こす営みは続きます。心にとめていただけば幸いです。

こうして、「感謝」に思いを巡らしつつ復活祭を迎えましょう。

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