世相史に漂う「クリスマス」――日本とキリスト教の関係を考えさえる一書に寄せて


石井祥裕(AMOR編集部)

大変興味深い書と出会った。堀井憲一郎著『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』(講談社現代新書 2017年10月17日発行)である。堀井氏は1958年生まれ、京都市出身のコラムニストで、同じく講談社現代新書となっている『若者殺しの時代』(2006年)、『落語論』(2009年)など多数の著書がある。有名な人なのかどうなのか。3年前に出た本書もそのときには知らず、今年たまたま書店で出会ったものである。単にこちらの無知というか情報収集の不足なのかもしれないが、今年出会ったことはまず喜びたいと思った書になった。

 

どんな本?

堀井憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』(講談社現代新書 2017年)

タイトル、サブタイトルが十分に示しているように、本書は、キリスト教国ではないのに、キリスト者でもない人々によって、しかし、盛んに祝われる「クリスマス」という日本社会独特(のように思われる)現象を、どうとらえるか、どのような経緯でそうなったのか、という点を見ていくものである。それは、帯の宣伝文句「キリスト教伝来500年史から読み解く極上の『日本史ミステリー』」が示すように、本題は日本史、とくに日本社会の世相の変遷における「クリスマス」を見ていくことにある。なぜ(日本人から見て)異教徒の祭典が日本化したか、ザビエルによる伝来の始めから現在までをたどるという、ある意味で壮大な企画の書である。

「あとがき」によると、本書の成立のそもそもは、1980年代から顕著になった「恋人たちの祭りとしてのクリスマス」のルーツ探求にあったという。それを週刊文春に発表したのが2000年。その探求をもとに、2006年、前述の『若者殺しの時代』を発表、そこからの派生的展開が本書ということである。

調査資料とされたのが、キリシタン時代については、『イエズス会士 日本通信』(村上直次郎訳 雄松堂書店 1969-69年)と、『完訳フロイス日本史』全12巻(松田毅一・川崎桃太郎訳、中公文庫 2000年)である。江戸時代に関しては、多くが回船業者であった漂流者の書まで探っている。『北槎聞略 大黒屋光太夫ロシア漂流記』(桂川甫周 岩波文庫 1990年)である。もっとも特徴的なのは、明治憲法施行以降、東京朝日新聞などの新聞記事をくまなく調査したとしている点である。この部分が「なるほど、そうだったのか」と非常に面白く、日本世相史概観としても示唆に富んでいる。それによるところの日本的祭典化の経緯はかい摘んでいうと以下のようである(本書84ページ以下)。

 

クリスマスの日本的祭典化のしだい

書類で確認できる日本人による最初のクリスマスは1874年、築地居留地における女子学院で原胤昭ら開いた祝会という。神田明神の祭礼のような気持ちで実施したという原の証言がある。この年から1905年に至る30年間のクリスマスは、だいたいが居留地(1999年まで)において「異人さんたち」が行う「楽しそうな」祭りという印象で報じられていた。

それが1906年から一変する。1903年の新聞広告から掲載されるようになる「クリスマス」の文字だが、1906年から「はしゃぎ」始めるというのだ。この年「サンタクロース」という文字も広告に登場し、1907年からは「クリスマ・スプレゼント」に関する記事が出てくる。1906年が「キリスト教と関係のない日本的なクリスマスが本格的に始まった年」であり、これ以降“羽目をはずしていい日”として定着した。そうなった一大要因が日露戦争での「勝利」にあるという推論が重要だが、それは本書を読んでほしい。

大正年間には、クリスマスが華やかになっていく。1913年の記事によると、このころすでに銀座の街にはクリスマス飾りで施されるのが慣行となっている。一方では「子どもたちのお楽しみ会」という設定が教会でも、一般でも強くなると同時に、帝国ホテルのクリスマス・パーティというイベントとしての盛大化も目立っていく。それは、関東大震災(1923年)に見舞われても揺らぐことがなかったというのだ。

昭和のクリスマス。一つの変化というか発展の因子となったのが1926年12月25日の大正天皇の崩御だった。昭和2年(1927年)から昭和22年(1947年)まで12月25日は「大正天皇祭」という国祭日であった。先帝命日祭日に大正以来の「クリスマス」という大騒ぎの祝祭をすることに対して識者の間で議論になった。これは堀井氏の今回の調査からの新発見であったらしい。憲法学者・上杉慎吉と民俗学者・柳田國夫の紙上討論が興味深い。ここでは割愛するが、国祭日となったことは副産物として12月25日とその前夜イブからのクリスマスは狂騒に拍車がかけられていく。1928年から1933年までがそのピークであった。1930年頃からは“エロ・グロ・ナンセンス”の調子も強まり、大人(男たち)の遊興という度合いを増す。満州事変勃発でも熱狂は収まらなかった。

変化が訪れるのは1937年。日中戦争が始まってからであり、そのあとの戦時体制下では、自粛、国体護持派による攻撃、警察による取り締まりの対象となっていく。戦争によってクリスマスの日本的なお祭り騒ぎは消えていった。戦後(占領下)それが徐々に復活するが、明確になったのが1948年のことという。この年から約10年間、1957年までが戦後のクリスマス乱痴気騒ぎのピークとなる。そして、著者はこの時期の騒ぎと質は、戦前1928~33年頃のものと変わらないという。戦前・戦後史の見方に通じるこの論点も重要である。

クリスマスを巡る世相の次の変容期は、高度経済成長期(1955年以降~1973年まで)にある。乱痴気騒ぎは収束し、「家庭で過ごすもの」に変化したというのである。これは意外に思われる事実には、売春禁止法(1958年)、安保騒動(1959~60年)、そして東京オリンピック(1964年)が絡んでいるという分析が続く。男たちは家庭に戻り、クリスマスは「子どもたちの祝祭」というモードになっていく。

しかし、その後、1970年代から新しい変化が訪れる。ここに絡んでくるのが1960年代末期から流行するバレンタイン・デーの風習である。が、ともかく、クリスマスは「若者たちの祝祭」、そして「女性たちのもの」になっていく。このあたりでは、女性誌「an・an」や「non-no」の分析、さらに男性誌「POPEYE」や「Hot-Dog PRESS」の調査を交えている。いわく、1980年代から90年代にかけてクリスマスの「ロマンティック革命」が完遂され、「恋人たちの祭り」になっていった。その盛り上がりも、しかし、1990年代バブル崩壊の影響とともにさらに別な局面へ移り行き、2000年代に大きく旋回していく。その模様を反映しているのがクリスマス・イルミネーションの流行であり、2010年代になってのハロウィン騒ぎの盛大化だというわけである。

 

なるほどの変遷図

1980年代のクリスマスをめぐる世相への言及は、前提となった若者文化の変遷への関心とともに、堀井氏自身の青年期の体験の吐露が絡まっていて面白い。

堀井氏とほぼ同世代の筆者にとっても、靴下を用意してサンタさんがプレゼントを入れてくれるのを純粋に信じて待っていた学童前の頃の我が家での思い出は、高度経済性時代のクリスマス祝いの家庭化の実例であったと納得がいく。そして、1980年代、ニューミュージックというか、今でいうJ-POPのクリスマス・ソングの量産時代(今や定番となっている山下達郎の「クリスマス・イブ」、松任谷由実の「恋人がサンタクロース」などなど)の時代的背景が1980年代からのクリスマスのロマンティック革命にあったという説示もなるほどと合点がいく。

それらの喧騒がクリスマスに関しては、今や沈静化し、ある意味でパターン化しているのが2010年代のクリスマスなのかもしれない。家庭の祭事、新しいコミュニティーの祭事になっている面もあるのではないだろうかと、本書のような調査は続けていくべきものであると思わされる。2017年発表のこの分析の果てに、今年のコロナ禍のもとでのクリスマスが立っているといえそうである。

 

そのキリスト教論

以上のように、ひとまず、日本世相史のなかでのクリスマスの変遷とその要因に関する、著者の指摘は、一つひとつが面白く、刺激に富んでいる。歴史観察として共有しつつ、さらに調査を多くの資料、そして、キリスト教系の雑誌や新聞にまで広げていきたいという気にさせられるところである。

同時に、本書のもう一つの主題軸が「キリスト教と日本」論にあることは見過ごせない。というか、そこが本書の主張としての特色になっている。たとえば:

キリスト教は、信じないものにとっては、ずっと暴力的であった。そういう厄介なものはどう取り扱えばいいのか。それは日本のクリスマスにその答えがある。
「日本のクリスマス騒ぎ」は、力で押してくるキリスト教文化の侵入を、相手を怒らせずにどうやって防ぎ、どのように押し返していくのか、という日本人ならではの知恵だったのではないか。だからこそ、「恋人たちのクリスマス」という逸脱にたどりついたのである。

(10ページ)

ロシアとの戦争で勝ってから、クリスマスは日本の年中行事に取り入れられた。
ある意味、日本とキリスト教の不可侵条約のものだとおもう。
おたがい、それぞれを侵さない。
日本は、キリスト教国になることはないが、でもキリスト教に対していままでのような排除方向だけでは接しない。クリスマスという楽しげなイベントを受け入れるから、そのあたりで手を打ってもらえないだろうか、という言葉にしないやりとりである。

(248ページ)

クリスマスの大騒ぎは、キリスト教の教えを受け入れないという宣言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・である。

(249ページ)

著者自身は、ずっとそれでいいという立場であるが、その立場は別としても、これらの指摘は、ある真実をついている面があるように思われる。本書の端々には、こうした「キリスト教」論、「キリスト教と日本」論が交えられる。コラムニストらしい簡潔で印象的な文言で、それは書き記されている。キリスト教側(これも多様だが)の書き物ではあいまいにされていくようなところに、よい意味で鋭く切り込んでくれているという気がする。

そこは、しっかりと受けとめておくべきであると思う。同時に、そこで考えられている「キリスト教」とは、なんなのか、どうしてそうなり、今どうなっているのかを自分たちに問いかけなくてはならないと、思わせられてならない。それは、本書の中で、教会がまったく見えなくなっていく事実とうらはらでもある。その意味で、本書は、著者の意図とは別に、「教会とは」「信仰とは」「福音とは」を考えるための場をきれいに整えてくれているものという気がしてならない。このあたり、考察や対話は、AMORとしても続けていかなくてはならないだろうと、考えさせられているところである。

 


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