FATAがやってきた5


あき(カトリック横浜教区信徒)

 今年7月でFATAは3歳になった。飼い主との関係も良好。FATAはいろいろなことを覚えた。朝私がFATAのところに来ると、大きく延びをして「さあ、1日が始まるぞっ」という仕草をする。私がケージの扉を開くと、さっそくおもちゃを私の前にもってきて「遊んでよぉ」とじゃれてくる。私が無視してテレビをつけてソファに座ると、パンと隣に飛び乗り、左手にじゃれながら甘噛みをして「遊んでよお」と仕掛けてくる。しばらくテレビを見ながら左手をFATAのおもちゃにしているうちに、自分でケージに戻り、おしっこを一回。犬は元来きれい好きで、おしっこシートを変えてきれいにしておくと、必ずそこで用を足す。私は隣の部屋に行ってFATAのエサを調合して水を加えてもってくる。FATAの前に見せるようにして「お座り」というとFATAはすぐに正座する。FATAの前にエサを置くとくんくん嗅ぐが食べない。しばらくして水分が、かりかりのエサに混ざったころ、私が混ぜて盛り上げてあげると食べだす(これがFATAの癖)。そのあとが飼い主さまの朝ごはん。テレビを見ながらご飯を食べていると、FATAは「もう食べたよ。つまんないよぉ。遊んでよお。」とソファの背に上り、横たわりながら私たちが食べ終わるのをじっと待っている。言葉のない中で互いに会話しているようなこんなやりとりが朝の日課である。

私が靴下を履きだすと、ソファの背に立ち上がりながらFATAはそわそわしてこちらを見つめる。

「きっと外に連れて行ってくれる!」FATAの期待感がまっすぐ伝わってくる。

リードをもってFATAに近づくと、FATAはソファの背の上で立ち上がり、私にもたれかかる。

リードをつけてFATAを抱き外に出る。

梅雨がやっと終わり今日もいい天気。暑い夏が始まる。 朝6時の公園は、もう人でいっぱい。ラジオ体操を待ちながら定位置で背筋を伸ばしている人。私と同じに犬の散歩をしている人。お子さんとジョギングをしている人。それぞれが、マスクをして朝のちょっと涼しい風を感じながら、公園のみどりを楽しんでいる。遠くで鶯の声や、やかましいガビチョウの声が聞こえる。みんみん蝉の間に、もう秋のセミの声。そんな公園を皮膚で感じながらFATAと散歩する時間。ひまわりが天を向き、背の高いメタセコイヤが天を衝く。そんな時間はFATAがくれたものである。

 いつものベンチが近づく。FATAはリードを引っ張ってベンチに私を誘導する。ベンチに私が座るや否や、FATAは私の膝に飛び乗る。

犬は日本語を話せない。けどこんな時間の中に気持ちのキャッチボールが生まれる。安心して身を委ねているFATA。じっと前を通り過ぎる人たちを見つめているFATA。

人間はそれぞれの生い立ちや人生において培ってきた自分を守る殻をもっている。もしFATAのように思ったままに自分を素直に表現し、自分に与えられたままの環境を信じて生きていけたら。

どんなにかいいだろう。

人も小さな命。犬も小さな命。セミや鶯、夏を謳歌するひまわりや花々も小さな命。

それぞれが与えられた環境を信じて生きる。

そんな黙想が始まる。


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