ウイルスとともに、叡智とともに ~~番組レポート・書籍紹介~~


石井祥裕(AMOR編集部)

マスクは嫌いだったのに

マスクは嫌いだった。インフルエンザの季節、花粉症の季節にマスクをしている人が増えるのを見て、あまりいい気持ちはしなかった。どうしても咳やくしゃみが出そうなとき以外は、極力マスクはつけない。そんなポリシーもあっというまに砕け散る日々。いまやマスクは外出するときは、服を着るものというのと同じぐらいのものになり、そして、服にいろいろなデザインがあるように、マスクも一つのファッションポイントになりそうに勢いである。街の景色が一変している。

マスクにどれだけ感染予防効果があるのかはわからないが、それ以上のシンボルになりつつある、対策をしている、闘っている、協力していることを宣言するしるしとして。新型コロナウイルスに対峙する人類の一員であるかのような、そんな兵士の一員になっているかのような気にさえなってくる。

 

社会的価値観の転倒

新型コロナウイルス感染症拡大による危機感が押し寄せてきた3月末、志村けんさんの死亡がその切実感を一挙に高めたあの日々のあと、緊急事態宣言発動の4月がやってきた。延長の5月、暫定解除の5月末……今も状況の完全な打開、ましてや収束、そして感染症流行の終息などは、たぶん見通せない。

ことがら以上に、未曾有のニュースと聞いたことのないことばが押し寄せてきたことに、頭も心もついていかない時期が続く。外出自粛、三密(密閉、密集、密接)、ソーシャルディスタンス……とりあえずの対応はしているのに「これ何?」と頭がついていけていない。

家にいることは「引きこもり」といわれ、職場や学校に「行かなければならないもの」という通念・モラルが普及し、欠勤や欠席にはきちんとした理由があり、きちんとした届け出がないとならないという原則が厳然とあったついこの間。満員電車がそのあかし。

ところが、これらに「来てはいけない」というふうに真逆の“圧”がかかる。「コロナ」が「来るな」に聞こえてくる。アルバイト型の勤務者として受けた、あろうことかの一方的業務停止。つまり収入の一つの当てが一方的に奪われる事態。それは経営者にも非情な時期だっただろうが、あまりの仕打ち。

在宅勤務、テレワーク、オンライン授業が推奨され、原則化される事態にも。これまでの職場や学校が建前としてきた価値観の中身がすっかり転倒してしまったような数ヶ月。満員電車に乗って職場に密に集い、密接・対面で業務していたことが当たり前と思われていたときが霞のように消えて一瞬のごとく消え失せている。解除・正常化といって、もとにスタイルに戻ろうとしているが、そして、たとえ外形的に復活はするにしても、心には無限に大きく深い裂け目が生まれたまま、社会認識の新しい決定的な視座になっていくのではないだろうか。

 

歴史へのまなざし

新型コロナウイルスによって引き起こされた半信半疑の状況の中で、このちっぽけな人間にも「人類」ということばが心の深奥からつぶやかれるようになった。心の促すままに、夥しく流れてきたこの問題をめぐるテレビ番組の中で“人類とウイルス”をテーマとした番組を覗くことになった。たとえば、NHKのBS1スペシャル「ウイルスVS人類3 スペイン風邪 100年前の教訓」(初回放送5月12日)。BSプレミアム『英雄たちの選択』を担当する歴史家・磯田道史(いそだ・みちふみ、1970~)氏がリモート出演し、恩師の書として紹介した一冊の本がこの番組そのものの基本的なコンセプトのもとであったことを知る。その書のことを教えてくれたこと、そしてスペイン・インフルエンザの出来事が「忘れられてしまったこと」自体が歴史の教訓であったと指摘する磯田氏の発言がインパクトをもって胸に飛び込んできた。

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店 2006)

こうして知ることになった速水融(はやみ・とおる、1929~2019)著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店 2006)を今座右において知見を得つつあるところである。「スペイン風邪」と日本で通称され、1918~20年に全世界的に感染拡大した、あの当時の新型インフルエンザウイルスの犠牲者数の値は目を疑わせる。速水氏の叙述によると、全世界で死者は2000万から4500万。第一次世界大戦の戦死者が1000万といわれるのに対してその数倍。日本でも内地だけで死者50万近くに上ったという。終息の3年後に起こった関東大震災の死者の5倍近くに及ぶ。

これほどの大事件であったものが、なぜ「忘れ去られた」のか。そこに現代史の隠された一面があり、今あらためてこの出来事を問い、今年の出来事と併せて「忘れないようにする」意義がある。

その番組、BS1スペシャル「ウイルスVS人類3」では、第一次世界大戦との関係にも目を向けていた。一つの原因で、人類の命を奪ったものとして世界史上、最大の災禍であったというこのスペイン・インフルエンザ、なぜ「スペイン」という名前が冠せられたかにも、大戦が絡んでいた。すでに感染が拡大していた国ではその事実が隠されていて、中立国であったスペインがこれを公表したために、皮肉にもそう呼ばれるようになったという。そして米国のウィルソン大統領による戦後処理が挫折に追いやられていく原因もこのインフルエンザにあり、それは第二次世界大戦につながる遠因となっていった……という磯田氏の指摘は、現代史を根底から覆させるほどの刺激であった。

同じく磯田氏が出演し、漫画家のヤマザキマリ氏がローマ史、イタリア史の知識も導入しつつやはり歴史的考察を展開していたEテレのETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界~歴史から何を学ぶか」(初回放送4月4日)、それからつい最近見たBS1の10分番組「コロナ新時代への提言 歴史学者・飯島渉」(放送6月16日)などから得た話はいずれも意味深く、考え方を刺激するとともに、心をしだいに落ち着かせるヒントになっている。ちなみに、飯島渉氏は青山学院大学教授(1960年生まれ)で感染症の歴史の専門家。『感染症と私たちの歴史・これから』(清水書院 2018)が今タイムリーとなっている。

 

人類文明の影

それらから学ぶのは、人類の文明化とともにウイルス感染症との付き合いが始まっているということ、農耕の始まり、野生動物の家畜化、森の開拓、都市化……生態系の秩序に人類が介入者となって以来、そこにウイルスの発生、変異の基盤が生まれているのだという。であるならば、現在の人口増大、環境への負荷、温暖化……と呼ばれる、地球環境の変化はまた新たなウイルスの発生を助長していくことになるかもしれない。最近のSARS、新型インフルエンザの発生は明らかにその現れである。このような事態は、これからも頻度を増していくだろう。風邪や季節性インフルエンザのように弱く共存できるような形に収まるものもあれば、突如、強毒化、パンデミックを引き起こすものも現れかねない。「コロナ」という語が席巻しているが、「新型ウイルス」であることがなにより脅威のようである。

今年、人類は、新型コロナウイルスに遭遇して、人類の文明とともにつねにある危機をまざまざと知ったことになる。それは、人類=ホモ・サピエンスがホモ・サピエンスであることに含まれる逆説的な矛盾の一つ、普通の暮らしがその平和なシンボルであるところの文明のもつ逆説的な矛盾を露呈したものということになる。人類の一員として、こうした、人類の“底”を見ることになった数ヶ月であるのに違いない。「対面すること、抱き合うこと、交わること、ともにいること」の価値観に挑んでくる、見えない病原体に対して、われわれはどのようにホモ・サピンエスとして、対峙していくのだろうか。

 

教会が挑まれているもの

他方、教会は、社会の動向、趨勢にいち早く対応して、典礼の公開を中止してきた。「信者は聖堂での礼拝に来てください」という姿勢だった教会が、堂々と「来ないでください」という側に回る。たしかに韓国の新宗教教団やユダヤ教の超保守派が礼拝集会をかたくなに続けて感染者集団になったというニュースを聞くにつけ、教会の対応は、むしろ早く注意深く、それはそれで賢慮に満ちていたといえるだろう。しかし、危機が通りすぎたからといって、元通りの教会生活になるだろうか。社会生活そのものと同じように、もう戻れないのではないだろうか。

歴史家たちの指摘や提言は、教会として重く受けとめ、その考察の仲間になっていくべきだろう。人類のありようをいつも考えているキリスト教であり、福音宣教なのであるから。フランシスコ教皇の回勅『ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に』の精神をもって問題提起と考察対象をさらに広げていくという課題が生まれている。

そして、よい意味で、この未曾有の季節の間、キリスト者たちは知ったのではないだろか。自宅もどこも、至るところがやはり聖堂なのだと。神との空間であり、神との時間であると。どこでも祈りはささげられる。そして、ほんとうに必死でこの危機の中で、神に祈ったのではないだろうか。聖堂で集まって行われる祈りの次第(典礼祭儀の形式)は、それはそこでのためのもの。もっと普遍的な祈りの姿を、われわれは信仰の姿として示していけるし、いかなくてはならないということを鮮やかに実感したのではないだろうか。

ステイホームは、まさに一種の隠遁だった。公認された隠遁であり、魂のチャージの期間であったはず。神と人類との対話としての祈り、教会の存在への問いかけへの沈潜に向かえていたのならそれはやはり大きな恵みであるだろう。それぞれに、生活の中で試みた暮らしと仕事と娯楽の工夫は、「あのとき大変だったね」と過ぎ去っていくことはないはず。「新しい生活様式」と叫ばれる様式は、もちろん信仰生活や宣教活動にまで及ぶはずである。人類の“底”を突きつけられたことを、あるべき刷新につなげていくのがこれからの日々だろう。

やがて教会の日曜日にも人が戻ってくるだろう。しかし、もう前とは同じではないだろう。そこから新たに生まれてくるもの、神から分与されているはずの叡智に信頼し、期待し、忍耐と沈思の日々を続けていこうと思う。

 


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