外海地方の入口、樫山の聖地 前篇
――赤岳の麓、皇大神宮神社と天福寺
倉田夏樹(立教大学日本学研究所研究員、
南山宗教文化研究所非常勤研究員)
帰省の度に、長崎の聖地を訪ねてから、
この不定期連載「新ながさきキリシタン地理」の原稿に臨んでいる。
今年は、コロナ禍で帰省することができず、
東京から、遠く長崎の聖地を想い、筆を執っている。
今回からは、コロナ以前に訪れた最後の聖地で、
外海地方、厳密に言うと、南外海地方、
樫山(かしやま)の聖地・赤岳を中心に、
二回にわたってとり上げたい。
神社と寺、というところが、
日本キリスト教史の重層性をよく表わしている。
順に紹介したい。
この樫山という地は、
長崎の中心地から、車で北西に40分ほどで、
外海地区・黒崎にたどり着く直前の道を左に入った集落である。
外海地区への巡礼は、
黒崎(枯松神社もある)、出津(世界遺産、遠藤周作文学館もある)、
大野(世界遺産)と廻られるであろうが、
そちらとセットで、この樫山・赤岳に行くことができる。
外海・黒崎と樫山はほど近く、3キロ位の距離である。
外海地方に伝わる殉教伝承のうち、
黒崎・枯松神社が、西欧人サン・ジワンの聖地なら、
樫山・赤岳は、サン・ジワンの弟子・日本人伝道師バスチャンの聖地だ。
この伝承は、のちの仙台司教・浦川和三郎神父が、
『切支丹の復活』(前篇)に採録したものによって主に現代に伝わる。
バスチャンの伝承は、
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』や、
ジャン・クラセ『日本西教史』、マルナス『日本カトリック復活史』など、
西洋人による史料には記されていない。
浦川和三郎によると、
ジワンはジョアンの訛りで、
南蛮船で来日したスペイン人宣教師だったようである。
長崎港内の高鉾島沖に停泊していた南蛮船は焼き打ちにあい、
命からがら逃げ落ちて、福田、黒崎と北上して住みついた。
主に外海地方でキリシタンの伝道をし、
枯松神社は、サン・ジワンを祀るとも言われており、
地元ではサン・ジワンの墓とも伝わっている。
バスチャンは、外海と反対方向の長崎南部、
当時は佐賀藩の深堀にあった菩提寺の下男であったが、
サン・ジワンから教えを受けてキリシタンになり、
弟子となり、ともに外海地方の布教活動に携わった。
バスチャンは、霊名セバスチャンを指すと言われる。
サン・ジワンが世を去った後も、外海地方の伝道を続けた。
サン・ジワンから賜った教会暦・バスチャンの日繰りと、
「7代経てば、黒船に乗って神父がやってきて…」
という有名なバスチャンの予言で知られる。
バスチャンの予言の7代後に、
フランスからパリ外国宣教会の司祭団が来崎したことを根拠に、
浦川和三郎は、バスチャンの殉教を1660~70年頃と推定した。
サン・ジワンが乗っていた船の焼き討ち事件は、
1609~10年のマードレ・デ・テウス号事件
(ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)
とも伝えられている。
外海地方でも司牧・宣教活動を行い1637年に没した、
金鍔次兵衛神父との出会いがあっただろうか。
【参照】キリシタン金鍔次兵衛の足跡を追って①
――武士出身の「神出鬼没」神父 金鍔谷編
さて、樫山・赤岳に話を戻すが、
バスチャンにはもう一つ、
「バスチャンの聖椿」という奇跡の伝承がある。
キリシタン弾圧が厳しくなった時代、
難を逃れて樫山に隠れている時に、
赤岳の麓にあった椿の木の幹に指で十字を描くと、
たちまちそこに十字架が現れ、
樫山のキリシタンたちは、その椿を霊木として尊んだという。
やがて外海地方にも、キリシタン狩りの手が伸び、
バスチャンは神浦地方に隠れたが、密告を受けて捕らえられ、
長崎に送られ、桜町の牢で3年3ヶ月間、数々の拷問を受けて殉教した。
捕らえられたのが20日、殉教したのが23日だったので、
外海のキリシタンは、毎月20日、23日を聖日として守ったとある。
バスチャンが世を去った後も、
樫山のキリシタンたちは、バスチャンの聖椿を祀ったが、
安政3年(1856年)の浦上三番崩れの際、
長崎奉行の役人に切り倒されるのではないかとの危惧から、
椿の木を小さく切って、木片をそれぞれの信者の家に配り、
家に死者が出ると、
棺桶の中にその椿を入れる習慣があったと伝わっている。
そのキリシタンの霊山として尊まれた
海抜118メートルの赤岳の麓に、
今は、皇大神宮神社がある。
立派な鳥居が建てられているが、神主がいるわけではない。
元は、7人のキリシタンを祀った社で、
「弁財天」と呼ばれていたようである。
樫山のうち、東樫山は佐賀藩の領地、
西樫山は大村藩の領地と、複雑な土地で、
こうした管轄の分散が、
キリシタンの潜伏に好都合だったという。
バスチャンの予言を信仰の支えに、
17世紀から、樫山のキリシタンたちは7代の「持久戦」に入る。
皇大神宮神社は東樫山にある。
浦上三番崩れの時、佐賀藩深堀家は、
「弁財天」がキリシタンに関係していると考え、
「弁財天」を没収し、天照皇大神を祀ることにした。
西郷隆盛・明治留守政府筆頭参議による明治6年政変によって、
キリスト教弾圧の中止が閣議決定された後も、
東樫山のキリシタンは誰一人としてカトリックに入らなかったようである。
東の佐賀藩と西の大村藩、ということを考えてしまう。
佐賀藩はキリシタンに対して寛容で、
一時は藩の宗門としたはずの大村藩は、
禁教後、キリシタンに対する取り締まりが厳しかった。
解禁後、西樫山に、カトリック樫山教会が建立される。
東樫山の皇大神宮神社の境内には今、
浦上三番崩れの際に連座して殉教した、
東樫山のキリシタン指導者・茂重の十字架碑が建てられている。
宗教的寛容さを感じさせられる史蹟である。
筆者は以前、第2回連載
「二つのキリシタン神社――枯松神社と淵神社・桑姫社」で、
「日本には、そして世界にも勿論、
三つだけのキリシタン神社というものがあるらしい。
その中の二つが長崎市にある」
と書いたが、これは誤りである。
少なくとも四つのキリシタン神社を確認したことになる。
謹んで訂正したい。
皇大神宮神社、かつての「弁財天」が、
7人のキリシタンを祀っていたわけであるから、
キリシタン神社と言えそうだ。
今後、意識して、
さらに無数に存在するであろうキリシタン神社を、
「発見」していきたいと思う。
外海地方には、他にもキリシタン神社があるようだ。
次回は、樫山における、
もう一つの宗教的寛容の事例について触れる。
【後篇はこちらです】
外海地方の入口、樫山の聖地 後篇――赤岳の麓、皇大神宮神社と天福寺