特集43 召命とわたし


神の招きは限りなく

カトリック教会には、「世界召命祈願日」というものがあります。復活節第4主日にあてられていて、今年は5月3日でした。教会の中では、司祭や修道者への召命をおもに考える伝統がある一方で、現代では、召命の意味が格段と広がっています。キリスト者となること、またすでに受けている洗礼の意味を新たに自覚すること、いわゆる信徒にも多様にある召命のかたちは千差万別、十人十色……人の数さえも超えて、神の招きは無限に広いようです。さらに……召命ということを深く考えるなら、キリスト者、キリスト教に限られず、人が自分の人生の道をなんと決め、何を志し、どう生きるか、そのすべての歩みと、そこにある決断や自覚にまで広がっていきます。それらを根底から引き寄せ、支えている力のなんと多彩で偉大なことか……。

世の中は、新型コロナウイルス感染症の世界的大流行に覆われています。簡単に終息とはいえず、ポスト・コロナはあるのか、ウィズ・コロナではないのか……先の見えない状況が続いています。今まで当たり前だと思っていた社会の景色が消えてしまった、未曾有の状況。重い雲のようにのしかかるこの状況は、わたしたち一人ひとりに、世の中と自分自身の人生に否応なく向き合わせます。自分の歩んできた道、その道のりを刻んできたもの、忘れられない誰か、何かとの出会い、前後を画する衝撃、心の中に深く打ち込まれる楔(くさび)……それをあらためてたどることは、しかし、とても大切なのではないでしょうか。

今回、お願いした記事や投稿記事、新連載初回記事などを通して、それぞれに、キリスト者として、神学生として、修道者として、そして信徒としての「召命」と向き合っていただいています。ぜひ、それらを友として、味わい、自身の召命について思うひとときとしないただければと思います。

余談ですが、そんなとき、教皇フランシスコが「世界召命祈願日」のためのメッセージで思い出させている、あのイエスの姿とことば(マタイ14:22~31)も心に留めていただければと思います。――ガリラヤの湖上、舟にいる弟子たちが逆風の波に悩まされているとき、イエスが湖の上を歩いてやって来て、「幽霊だ」と言って恐れる弟子たちにこう言うところです。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」

 

「突然」に導かれて

「召命」ってナニ?――神学院の昼下がり

わたしとキリスト教

わたしの歩いてきた道

「召命」について

余白のパンセ(1)余白へのまなざし

祈りはすごい――「世界召命祈願の日」

やさしさってなんだろう

 


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