わたしの歩いてきた道


蓮沼(カトリック麹町教会信徒)

大学生の頃、わたしは、生まれて始めてと言ってもよいくらいに、自分の「人生」に思い悩みました。哲学書を読み「答え」を探しましたが、どこにも見付かりませんでした。

どうしたらよいか分からなくなり、大叔父が日本基督教団の宣教牧師であった…そんな母方の伝手(つて)を頼(たよ)って「無教会(むきょうかい)」の人々を通じて、イエス様と初めて出会いました。

21歳の時、1991年、無教会研修所にて、1年間、量義治(はかりよしはる)という人物から「エクレシア論」を習いました。「教会(共同体)とは何か?」を、それは組織でも建物でもなく、次の福音書箇所に求められると、そう教えられたのです。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

(マタイ18:20)

量氏による著書、その一つから

当時、私にキリスト教を教えてくれた量義治氏は、哲学を専門とする学者でもありました。そして無教会の人でもあり、内村鑑三から数えて4代目、旧約聖書の研究で有名な碩学である、関根正雄(新宿集会を主宰)氏の弟子にあたる方でした。

わたしは確かに、イエス様と出会いました。でも、その方が「何者」なのかは、まだ分からないまま、時間は過ぎてゆきました。やがて、大学を卒業し、実社会に過ごし、その多忙を極める生活の中で、わたしが学んだ「キリスト教」は忘れ去られ、過去のものとなりました。

普通のサラリーマンとして一生を終えるはずでした。30代も半ばを過ぎたころ、仕事を持ち、稼ぎもあり、家もありました。あとは妻と子供を望みました。家庭を持ちたいと、当たり前を望みました。30歳も半ばを過ぎたころ、わたしは結婚を互いに約束した相手がありました。

その方が、突然に「化学物質過敏症」という病気になりました。不治の病、その病気を前に、相手方の配慮から、結婚の話は破談になりました。わたしは、この出来事を機に、また人生が分からなくなりました。この先も、普通の幸せは得られないと、それだけが痛感されました。

人間的な「弱さ」から、わたしは自分の人生から逃げるかのように、夜のネオン街を徘徊しながら「酒」と「女」に明け暮れました。重く、のしかかってくる日々を紛らわすことが「生きる」ことになりました。それは緩慢な「自殺」でした。死を待って、暮らしていました。

ある日、わたしの望んだ最後がやってきました。それは人生を諦めた、捨て去った男に相応しい、死の宣告でした。「最悪の場合も覚悟してください」と、緊急入院となった病院の主治医から告げられました。肝炎の急性増悪が疑われていました。

主治医から死を告げられた夜、わたしは病院へ持ち込んだノートパソコンで、自分の病名を調べました。生存率は100人に1人も満たないと書かれていることに驚愕し、それが第二次大戦の「ノルマンディー上陸作戦」の死亡率よりも高いことを知りました。

もしかすれば死ぬかもしれない。薄暗い病院の寝室、真っ白な天井を見上げながら、わたしは自分の人生に、何の価値もなかったことを思い知り、投げ捨てた人生が急に惜しくなり、激しく泣きました。あれほど望んでいた死が、急に怖くなったのでした。

わたしは、そこで、やっとイエス様と再会できました。そして二つの約束をしました。もし、この命が引き続くのなら、わたしは神を信じ、洗礼を受けて「クリスチャン」になること。もう一つは、病院で生まれた信仰ゆえに、残りの人生は「病者に尽くす」と。

そして、翌日を迎え、急性増悪の恐れはなくなり、一命は取り留めました。一か月後には病院を退院し、働いていた会社に戻りました。病院で、イエス様と交わされた約束は、日々の暮らしに埋もれてゆき、その緊張感を失い、ゆっくりと忘れ去られるかのようでした。

際に私が目にした景色と同じ光景から

数年が過ぎた頃、それは土曜日、休日での出勤、霞ヶ関までの道のり、四ツ谷駅での出来事でした。昼12時に、どこからか教会の「鐘の音」が聞えてきたのです。これが神さまがくれた、最後の機会なのだと思いました。わたしは自分の約束を思い起こしていました。

その教会は、駅の近くにあることを、初めて知りました。四ツ谷駅で、乗り換え以外で下車したのは初めての経験でした。教会の入り口には「カトリック麹町 聖イグナチオ教会」と書かれた、看板のようなプレートがありました。

そこが「カトリック」の教会であること。そして「イグナチオ」とは、イエズス会の創設者、イグナチオ(ロヨラ)司祭を意味していること。

プロテスタントの、それも無教会の人々から聖書を学んだ「わたし」と、後に「洗礼」を受けるであろう「教会」との、始めての出会いでした。

わたしは神さまの「ご意志」を疑いましたが、教会の売店で洗礼を受けるための講座について質問をし、シスターが、K・リーゼンフーバーという司祭のキリスト教入門講座が良いと推薦して下さったので、それに従いました。

教会にある売店。キリスト教入門講座の案内所にもなっていた。

シスターから質問を受けました。
「こちらの教会を、どこで、お知りになったのですか。」

わたしは答えました。
「鐘の音が、聞こえてきたので、それを辿ったら、ここに着いたのです」と。

返答を聞いたシスターは、満面の笑顔で、目を輝かせながら、わたしを見つめていました。

その時に感じたのです。この笑顔は、わたしを出迎えて下さった、神さまが下さったものだ、と。それから、カトリックに関して、地上的な偏見や迷いを捨てることに決めました。

自分が無教会で学んだことは傍らに置き去り、カトリック、イエズス会の教会へ通うことになりました。途中、成人(大人)になってから患うことになった喘息の悪化も手伝って、健康に恵まれず、洗礼志願者になるまでには、2年が経過していました。

2012年4月8日、復活の主日に、わたしはクリスチャンになりました。病院の白い天井を見つめながら、イエス様と約束してから、5年以上の歳月が流れていました。なぜ、わたしが「洗礼」を受けることになったのか、その日に、洗礼式に立ち会った方々に、証(あかし)をしました。

結婚式の写真

もう一つ、わたしが生死の境を主治医から告げられた時、イエス様と交わした約束がありました。それは「病者に尽くすこと」でした。洗礼を受けて翌年に、その人と出会いました。彼女は、難治性の「うつ病」であり、孤独の中にありました。

2015年5月13日、シオンの群教会という、プロテスタントの教会にて、わたしは病者である彼女と、ひそやかな結婚式を挙げました。それは、わたしたち2名、司式した牧師1名と、会衆が1名のみという、4名だけの、本当に、小さな、小さな、神さまだけが「ご存じ」のものでした。

わたしは、「クリスチャンになる」こと、「病者に尽くす」こと、二つの約束を果たしながら、残りの人生を送っています。イエス様と交わした約束です。その日が来るまでは、守らなくてはなりません。わたしは信仰の中に活かされています。

 


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