余白のパンセ(1)余白へのまなざし


鵜飼清(評論家)

世の中には、人に気づかれることがなくすばらしい働きをしている人がいます。あの人がいなければまとまらなかったよ、というようなことがあっても、当人は目立つところにはいません。実直に一筋の道を生きている人もいます。また、逆境の中でもくじけずに精一杯生きている人もいます。私は、そういう生き方をしている人を尊敬し、その人たちの声が聞きたくなります。なぜ隠れた人に目を向けたくなるのか。それは、いままで私が経てきた人生に関わりがあります。そのことを書かせていただこうと思います。スタートは青春時代に遡ります。

私は1967年、東京都立秋川(全寮制)高等学校に第3期生として入りました。旧制高校に憧れ、寮生活をしてみたかったからです。寮は1棟(1年)、2棟(2年)、3棟(3年)と建っていました。一室が8人部屋で、一人ずつに机とベッドが与えられました。生活は、朝から晩まで規律によって促されました。起床は6時で、起床のトランペットと音楽が流れ、全員が外の広場に出て点呼と秋川体操をさせられました。夜は就寝のトランペットと音楽で眠ります。食事は全学年が食堂に集まり、朝・昼・晩と一緒に食べました。寮と教室棟は渡り廊下で結ばれていました。学校が終わると大浴場のある風呂へ行き、友達と汗を流し合いました。その母校が2001年に廃校となり、創立36年で幕をおろしました。

今年の8月、武蔵五日市線の秋川(当時は西秋留)駅から歩いて秋川高校跡地へ行きました。堂々としたメタセコイアの並木が目に入ります。私がいたころは、背丈の倍ほどで、ひょろりとした木でした。聳え立つ並木の周りには、雑草が生い茂っていました。建物はすでにありません。広々とした敷地に、あのころと同じ風が吹いていました。好きで入った全寮制の学校でしたが、1年生のときに集団生活の中で自分を見失ってしまいました。友人たちが逞しく見えたし、みなが生き生きとして見えました。自分だけが取り残されているように思い、ホームシックにかかってしまいました。毎日決められた日課で暮らすことに耐えられなくなっていましたし、自分がちっぽけで弱い人間に思えました。こんな状態で学校生活をやっていけるのか、という自分に対する問いかけがはじまり、暗く長いトンネルのなかをたった一人で歩いているような気持ちでした。

2年生になり、ようやく寮生活にも慣れてきて、日課のなかに自分の時間を見つけ出していけるようになっていきました。そして気づいたのは、あるがままの自分でやっていけばいいのだということでした。素直な自分になれたとき、自分の弱さを真摯に受け止めることができるようになり、頑なにならずに他者との違いが受け止められ、規律に縛られているという意識も薄らいでいったのです。成績は低迷していましたが、3年生のときには寮生活をたっぷり楽しむことができました。熱い日差しを浴びながら、雑草に覆われた敷地を眺めていると、秋川を去るときの情景が浮かんできました。後輩たちが歌う寮歌の声が聞こえてくるようでした。

寮生活から解放されて、大学時代には自由を満喫し、卒業すると小さな出版社で働きはじめました。そこで編集の面白さと本作りの楽しさを知りました。それからしばらくして、1979年に3人で出版社を創り、会社の名前をマルジュ社と付けました。朝日ジャーナルにロブ・グリエが書いた文章で、「社会の余白(マルジュ)」という言葉があり、そこに目が留まったからでした。マルジュ(marge)とはフランス語で、余白、余裕、ふち、岸という意味があります。私は、マージナル(marginal=英語)の辺境や境界線といったことも含めた意味合いを込めたいと思いました。世の中が平和であるためには、人間が平等であるためには何が必要であるのか。その真理を追究するには、社会の小さき者、弱き者へ視線を向け、その人たちの声に耳を傾けることであると思ったからです。市井に生きる庶民の側に立って考えていく立場を大事にしていきたかった。それは、あるがままの自分、素直な自分からの発想でした。しかし、自分の力不足で、なかなか考えたようにはいかなかったし、周りの人間関係にも疲れ果て、1981年にマルジュ社を離れました。

この年には、2月23日にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が初来日しました。教皇は、24日に天皇と会見し、25日に広島で平和アピールを発表し、26日には長崎を訪問しました。そして4月には、マザー・テレサが初来日しました。自分の行くべき道に迷いあぐねていた私は、マザー・テレサという人を知り、マザーの働きに心を奪われました。そして、燦葉出版社が『マザー・テレサ―神の愛の奇跡―』(デスモンド・ドイグ著 岡本和子訳)という本を出していることを知り、白井隆之社長を訪ねました。白井社長とは、マルジュ社のときからときどきお付き合いをさせてもらっていたからです。白井社長や大見寿夫編集長から励ましてもらい、燦葉出版社で働くことになりました。キリスト教書との関わりがここからはじまりました。

燦葉出版社は、エキュメニカルな立場からキリスト教を捉えていました。『わたしを支えた聖書のことば』という本にはプロテスタントとカトリック(信徒・牧師・司祭)の方たちが寄稿してくれて、『この人のために』『永遠の命』(共に佐伯晴郎編)『一匹の羊』(山本襄冶編)の3冊を出すことが出来ました。この本には、さまざまな方たちが迷い悩み苦しみながらも、聖書の言葉によって励まされ希望を抱いて生きていく文章が綴られています。牧師や司祭の方たちも一人の生活者として、聖書の言葉を述べられています。信仰者たちの語りから、私自身が光りを与えられていると感じました。そして、土屋吉正神父と『解放の神学―日本からの視点―』という本を作るなかで教えてもらった「民の声は神の声」という言葉は、私がマルジュ社で求めていたものを明らかに表してくれたように思いました。

燦葉出版社では卓上カレンダーも作りました。その一つにコルベ神父のカレンダーがあります。カレンダーを作りながら、コルベ神父のことを学びました。ポーランドから日本に来て、「聖母の騎士」を発行し宣教するコルベ神父の生き方は、私が出版の道を歩む上で大きな指針を与えてくれました。そして、アウシュビッツでガイオニチェック氏の身代わりになって死んだという事実に、私は衝撃を受けました。このことが強く心に残り、1998年4月19日、フランシスコ会本部聖ヨセフ教会において小平正寿神父により洗礼の秘跡を授かったとき、洗礼名をマキシミリアノ・マリア・コルベにしていただきました。

映画「戦場のピアニスト」で描かれるワルシャワの悲劇を見るとき、コルベ神父のことを想い、胸が打たれます。ピアニストであるシュピルマンの弾くショパンの夜想曲第20番嬰ハ短調「遺作」が印象的で、私はこの曲を聴くたびに、ポーランドという国の持つ苦難の歴史に思いを馳せてしまいます。

私がキリスト教書を編集するようになってから、井上洋治神父の『余白の旅』という本に出会いました。井上神父の学生時代からの思索をたどるこの本は、私が一生をかけて追究していくべき内容が書かれていました。この本の最後のところには、「小さな生命ではあっても、一生懸命に、無心に、けなげにも雪の厳しさに耐えてでてきた蕗のとうは、ただそれだけで生きとし生けるものの余白を、吹きぬけてくる神の愛の息吹きを生き生きと語っていたのである」と書かかれています。私はいまも余白の旅の途上にいますが、井上神父がいう、余白を吹きぬけてくる風(プネウマ=聖霊)を感じて生きて行きたいと思っています。

(初出 「カトリック生活」2012年11月号 特集―信仰年 愛を証する)

 


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