ミサはなかなか面白い94 使徒書の朗読の位置関係


使徒書の朗読の位置関係

 

答五郎 2020年、明けましておめでとう。

 

 

瑠太郎、聖子、問次郎、美沙 おめでとうございます!

 

 

答五郎 ミサの面白さを一緒に探るこのシリーズも4回目のお正月を迎えているね。前回からミサの聖書朗読配分の話になっていた。今のような原則で聖書が読まれるようになって半世紀というちょうどよい機会だと思うよ。

 

瑠太郎 実は、このテーマでずっと気になっていたことがあるのですが……。主日のミサでは三つの朗読があって、復活節を除いて第1主日は旧約聖書が読まれますよね。その中で第2朗読では基本、使徒の手紙が読まれますね。でも、その順番がどうもしっくりこないのです。旧約があり、次にイエス・キリストが現れ、そして使徒たちの宣教の教えが来るというのが教会の歩みの姿なのではないでしょうか。

 

答五郎 ははぁん。実は自分も長い間、そんなことを考えていたことがあったなぁ。たしかに教会の歩みから考えると、歴史的な順番ではそのとおりといえるかもしれない。でもね、ここは聖書とともに教会の歩みを考える勉強会ではないのだよ。

 

聖子  「ことばの典礼」「ことばの礼拝」ということですね。

 

 

 

答五郎 つまりどういうことかな。

 

 

聖子  やはり福音朗読がその頂点だということです。そこにキリストがいて、語るところにミサの典礼祭儀としての前半の一つのポイントがあるからですよね。

 

 

 

瑠太郎 ええ、それはわかります。福音朗読が頂点であること、だからそれに向かっていくために他の二つの朗読が位置づけられているのですよね。とくに旧約聖書の場合は福音朗読のテーマとの対応関係が重要で、意味があることは前回学びました。その点、使徒書の位置関係がどうもわからないのです。

 

 

答五郎 それは、重要な問いかけだと思うよ。まず、朗読配分の基本原則というものを『朗読聖書の緒言』(カトリック中央協議会発行)によって確認しておこう。主日ミサの朗読配分を見ると、使徒書に関しては大きく分けて二つの方法がとられている。一つは「主題の調和」といって、福音、第1朗読(旧約朗読)とともに共通の主題に調和する箇所を読むやり方。これは待降節・降誕節・四旬節で行われているものだ。たとえば、今度の日曜日(1月12日)「主の洗礼A年」の朗読箇所を見てごらん。ここに『聖書と典礼』があるから。

 

聖子  はい、福音はイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるところ、そこで「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から声が聞こえるところ(マタイ3・13~17)。第1朗読は、キリストを予示するような「わたしの僕(しもべ)」について「見よ」と告げるところ(イザヤ42・1~4、6~7)。そして、第2朗読は、使徒言行録から、ペトロの宣教のことばが読まれますね。そこはたしかに、神がイエスを聖霊と力によって油注がれた者としたというところ(使徒言行録10・34~38)で、三つの朗読は関連し合っていますね。

 

瑠太郎 これらの季節では、三つの朗読箇所を見ながら、全体を貫く主題を考えてみるといいのですね。それはむしろ考えやすい気がします。

 

 

答五郎 だろう。もう一つは「準継続並行朗読」と呼ばれるもので、簡単にいえば、一つの使徒書を数週間にわたって順番どおりに朗読するやり方だ。復活節と年間がその配分法になっている。福音を中心とする主題の展開とは別にそれと並行して進んでいくという意味で、「準」というのは主日の場合はそれでも完全に継続して読んでいくのではなく、抜粋朗読になっているからだよ。『朗読聖書の緒言』にある配分一覧表を見てごらん。

 

聖子  はい、あ~、A年の年間の初めのほうを見てみますね。年間第2主日から第8主日までが、1コリント書の1章~4章から順番に抜粋朗読されるようになっているのですね。そんな仕組みがあったなんて。カトリック教会の皆さんは知っているのですか?

 

答五郎 いやあ、たぶん、その主日ごとに、ミサに行ったときに箇所を知るのだと思うよ。『聖書と典礼』という冊子でその日の箇所を具体的に見たときにね。ただ、一年全体の中での配分の様子や3年周期の配分の全体像まではあまり知られていないのではないかな。

 

瑠太郎 皆、この配分一覧表を持っているのではないのですか。

 

 

 

答五郎 そうだね。少ないと思うよ。

 

 

瑠太郎 そうなのですか。少なくとも僕には、現在のカトリック教会の、そのような意図があっての配分法というのは新鮮でした。

 

 

聖子  わたしも、です。ミサの中で、ある部分を取り出して読むというのは、儀式的な意味が強いものなのかと思っていました。クライマックスの福音朗読のいわば前座のように、それなりには関係する箇所が読まれているのだろうと、漠然とは思っていましたけれど……。

 

答五郎 それを感じていただけ、たいしたことだと思うよ。そこから、朗読配分の原則や一年を通じての配分法の特色を知っていくと、ますますミサは面白くなると思うよ。

 

瑠太郎 はい、ただ、朗読配分法を知ったことは、新鮮ではあったのですが、同時に疑問もふくらみます。それは、聖書の全体、各書の全体を通してその意図・構成・表現法を尊重して読む読み方と、典礼的な組み合わせ方で読む読み方の違いや関係ということです。

 

答五郎 なるほど、つまり、聖書全体や各書のもつ固有の法則に即して読む読み方と、いわば典礼の法則での読み方との違いを強く感じているのだね。

 

 

 

瑠太郎 そうです。聖書そのものを自分なら原語で、真の姿で触れて、その内容を探究していきたいと思っています。その上で、独自の配分法によって典礼祭儀の中で聖書を読む読み方との違いや両方の意義をぎりぎりまで考えたいのです。

 

 

答五郎 もちろん、それは、ぜひやってほしいと思うし、必要なことだと思うよ。ただ、その中でも忘れないでほしいことがある。

 

 

瑠太郎、聖子 なんでしょうか。

 

 

答五郎 典礼は、あくまで集会の中で朗読される、つまり朗読の奉仕者の肉声をもって書かれてある聖書のことばをいわば立体化、身体化して、声として聴くところにこだわっているということだよ。そこで神が語る、キリストが語るという意識で受けとめながら。

 

聖子  はい。聖書は読むものではなく、聴くものだ、とどこかで教わりました。

 

 

 

 

瑠太郎 語られるものを聴く、告げられるものを聴くということが、典礼の柱にあるのですね。

 

 

答五郎 文字と声の関係といってもよいのかもしれないけれどね。これも大きく深いテーマだと思うよ。ただ、使徒書の朗読の意味についてもっと考えておきたいことがあるので、それはまた次回に探ることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

thirteen + seventeen =