栗原貞子


私が栗原貞子という詩人を知ったのは、小学校高学年の頃だったと思います。夏休みに入ると、夜行寝台列車に乗せられ、広島に行き、1カ月半両親の故郷広島で過ごすことが当たり前になっていた頃のことでした。父方の祖母は、詩や和歌、俳句などに造詣が深く、祖母の家で過ごすときには、いつも広告を切って、ノートのようにして、どこへ出かけるときも鉛筆と一緒に持ち歩き、時々で気になった風景を書き留め、家に帰ると、その風景を自由な形で文章にすることが当たり前のようにして過ごしていました。

『詩と画で語りつぐ 反核詩画集ヒロシマ』(詩・栗原貞子、画・吉野誠)

祖母は原爆を受けていますが、そのことには触れたことはありませんでした。しかし、ある日、『詩と画で語りつぐ 反核詩画集ヒロシマ』という本を手渡されたのでした。この本は、中高生向けに書かれたものですので、当時の私には少し難しいものでしたが、親戚にカラダの半分にケロイドを負った人がいましたし、夏の広島は原爆の鎮魂に満ちた町でした。この本を読んだことで私の人間形成に大きな影響を与えたのではと思っています。

前置きが長くなりましたが、栗原貞子についてお話ししたいと思います。栗原貞子は大正2年(1913)広島県広島市の農家の生まれです。可部高等女学校(現在の広島県立可部高等学校)在学中の17歳の時に『中国新聞』文芸面で短歌革新の新進歌人としてデビューします。18歳の時にアナーキストで禁治産者の栗原唯一と駆け落ち同然で結婚します。唯一さんはその後兵隊に招集され、中国に送られますが、病気で除隊となり、広島に帰ってきます。唯一さんから日本軍が中国で何をしているか教えられた貞子さんは、戦時中から戦争批判の詩や歌を書いていたそうです。

栗原貞子さんの代表的な詩に「生ましめんかな」があります。この詩について栗原さんは、『ヒロシマというとき』(1976年刊、三一書房)の中で、「被爆時に現実に存在した事実に基づいて書いた作品であるが、(中略)原爆の血と死臭の暗黒の底で、新しい生命が誕生したことをうたった平和への希望と人間讃歌を意味する作品」と書いています。

そしてもう1作「ヒロシマというとき」は、「1965年に始まったベ平連運動が、『被害者であると同時に加害者である』という、反戦の新しい視点をきりひらいたことにより、原爆被害者もまた、軍都広島の市民として侵略戦争に協力した加害者として自身の責任を問う」ために書かれたものだと書いています。

栗原貞子の代表作『黒い卵』

また、『ヒロシマの原風景を抱いて』(1975年刊、未来社)の「被爆者にとっての天皇――原爆はヒロヒトへの贈り物だった」では、「戦前・戦中派にとって天皇絶対主義の恐怖は母斑のように肉体にしみついている。天皇制は日本人にとっての原罪である」とまで書いています。この本の中では、文学の戦争責任についても言及しています。鋭い舌鋒で、天皇制を批判し、文学の戦争責任を追及した上で、「被爆者はなぜ沈黙するか」を読み解き、困難だった敗戦の現状認識などを書いています。

非常に明確にものをいう人というのが本を読んでの感想ですが、私が高校時代に祖母に連れて行かれた原水禁の集会で、栗原さんに何度かお目にかかったことがあります。そこではいつもにこやかで、すてきなおばさまといった感じの方でした。当時はすっかり栗原貞子という人と祖母に読ませてもらった本が結びつかずにいたのですが、今になって同じ人間と気がついた時、私の中で栗原貞子という人物がまた一回り大きく感じられるのでした。

中村恵里香(ライター)

 


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