石井祥裕(AMOR編集部)
「バレンタインデー」という習俗について調べようとしていたところ、まとまったものとして唯一、出会うことができた本があります。浜本隆志著『バレンタインデーの秘密 愛の宗教文化史』(平凡社新書 2015年)です。浜本隆志さん(1944年~ )は関西大学名誉教授。比較文化論を専門とし、特にドイツ文化に関する著書が多い方です。自身、まとまった研究がないことに気づいて取り組み、研究したという成果がわかりやすく紹介されています。とくに1980年代以降の内外の研究書・関連著作に関する情報も豊富で、ちょうどよい入門書となっています。お薦めしたいものです。この本での情報収集と思索に導かれていくつも驚かされた事実や視点がありました。5つの驚き要点をまとめて紹介したいと思います。すでに熟知されている方は、ご容赦の上、ご笑覧のほど、よろしくお願いします。
この祭は、儀礼がローマ、パラティーノの丘で行われ、山羊や犬の供犠がなされたという。さまざま系譜が絡みつく、このルペルカリア祭には、男女の出会いのきっかけとなる籤引き(女性が自分の名前を記入した札を壺か箱に入れ、男性がそれを引くというもの)が行われたという伝説もある。そして、この豊穣と多産を祈るために、前日の2月14日には、結婚、性愛、出産、子ども、家庭の守護神である女神ユーノにささげられる前夜祭が行われるようになっていった。
なるほど! クリスマスの成立の背景に、冬至祭があることは知られていますが、バレンタインデーにも冬至祭というルーツがあることは最初の驚きです。自然の季節の巡りに従って、命の行く末に心を向け、神々への供犠を通して生命の存続と繁栄を願うという構図には、十分に人類に普遍的なメンタリティの反映が感じられます。
ヴァレンティウスについては、本特集の別稿でも扱われていますので、ここでは略します。浜本氏は、ここの経緯に関して、とくに4世紀以降、古代諸宗教のさまざまな祭がキリスト教の祭へと変容されていく全般的過程に言及し、ルペルカリア祭に関しては、その根底にあった、生命力の放出、オルギー、エロスの交歓といった様相が、キリスト教の精神性のもとに統御し、別な祭に転化させようとする意図が働いて、2月14日のヴァレンティウス祭が生まれたのだ、と説明されます。このような経過において、ゲラシウス教皇のことがクローズアップされ、教皇権の上昇とも関係しているらしいことは、大いに刺激的でもあります。
中世から近世にかけての専門家らしく、浜本氏の本は、中世から詳しくなり、話題も広がってきます。それは、教会の事情、典礼や庶民の信仰生活の変化と連動しているものです。バレンタインデーが宮廷文化の中で愛の祭として洗練されてくる流れ、そこに付随する習俗が現代への近づきを感じさせます。
19世紀のイギリスでのプレゼントは、お菓子、ケーキ、花、香水、小物などが一般。チョコレートはその中の一つの例にすぎなかったが、19世紀の後半にハート型のチョコが登場したのも事実。こうした習俗は、移民を通じて、アメリカに伝わり、南北戦争後、バレンタインデー・カード文化が盛んになる。新興中産階級の恋愛、家庭への夢を描く祭として定着する。
これら近代を扱う中で、バレンタイン・カードについてはヨーロッパ郵便制度の発展史が語られます。これは、クリスマス・カード、バーズデー・カードともつながるものです。日本でプレゼントに添えられるカードという程度、あまり目立たないのではないかとも思います。重要なのは、このカード、郵便制度への考察は、まぎれもなくメディア論だということです。そして、ようやく、19世紀からチョコレートの話が登場しますが、浜本氏は、ここで、ヨーロッパにおけるチョコレート文化の形成と発展史を物語ります。壮大なテーマで、植民地主義、南北問題といったグローバルな経済構造、経済不均衡の問題まで浮かび上がってくるところは、重要だと思われました。
バレンタインデーは、社会や世界の問題にも根を張っているようです。
うっすらと聞いてはいた、チョコレートの伝来と普及のための企業戦略との関係はそのとおりだったようですが、本格的には1960年代以降のことだというのは、この時代に育った世代にとって経験と合うところでしょう。英米の市民社会型バレンタインデーが、日本では、女性からの告白、チョコのプレゼントに特化されてった次第は、まさしく日本文化論、日本社会論、ジェンダー論にまでなってきます。つまり、日本では、愛は奥ゆかしいものという価値観があり、告白をテーマにする、しかも女性からの告白をテーマにすること自体が非日常的であった、というのです。そのような背景から、この日を「ハレの日」として浮かび上がっていったと。もちろん、そこには、日本社会における男性優位、男女不平等の名残が色濃かったという点もつながってきます。
他方で日本で目立つものとして、期間限定販売の効果を競う商業主義、プレゼントの場が、職場や学校まで広がり、「義理チョコ」「友チョコ」、返答としての「ホワイトデー」が生まれることの深層にも触れています。「空気を読む文化」のユニークさなのだとも。
結論的に、浜本氏は、バレンタインデーは、やがては男女双方向型の祭として存続し、しかもインターネット時代らしい文化形態へと展開していくだろうと予想しています。
このように、バレンタインデーの系譜として紹介されたことのどれもが議論を重ねたくなるものばかりという印象です。それでも、キリスト教的「愛」と自然な愛(エロス、アモール、男女の愛)とが、あるときは拮抗し、あるときは互いに関連しつつ、それぞれが変容をとげ、さらに全体として、宗教的なものから世俗的なものへと変質していった大まかな過程は、クリスマスやハロウィンなど他の現象とも通じるところが多く見られます。とはいえ、このような過程からの暗示だけで、「キリスト教」を古代のもの、近代的でないもの、そして自然的なものに対して抑圧的なものというふうに見てしまうと、大きな誤解に誘われてしまうのではないかとも、思わされます。
浜本氏の本が書かれたのが2014年。以来、8年の間にバレンタインデーは、同氏も一部予測していたような、ある種のメタモルフォーゼ(転生)を遂げています。この原稿を書き始めた2022年2月14日、NHK総合テレビの「あさいち」では、「バレンタインにチョコっと考えてみよう!」がメイントピック。バレンタイン・チョコの多様化を話題にするものでした。しかし、そもそも、前提としてバレンタインデーを「女性が愛の告白する日」と考えるは、もう古いという観点から話が進んでいます。初めに紹介されたインタビューでは、「職場の人、家族、おいっ子、男女関係なく」「友達、バイト先の人」「自分、恋人」「父親」といった相手にプレゼントをするという回答でした。それでも、アンケート対象者の約75%が「贈りもの」すると回答していたのです。
贈る相手の広がりだけでなく、プレゼントの中身の多様化も実際には進んでいます。チョコにこだわらない、という意味では、英米での姿に日本も進んでいこうとしているのかもしれません。それは、逆に日本型バレンタインデーのこれまでの定型が生まれた1960~70年代、盛り上がった80年代になお強かった「古い」社会からの脱却が示されているということかもしれません。
広く親愛や感謝の気持ちを伝える贈りものをするという文化に普遍化しつつある、最先端のバレンタインデー、それは、逆にバレンタインデーが目立たないものとなっていく予兆かもしれません。もし普遍性を見いだすとするなら、やはり、「愛」がテーマであることは確かでしょう。対価を求めない贈与に、日常生活のルーティンからの小さな離脱を見いだすという意味では、古代の供犠、キリスト教の殉教、中世の騎士道にも含まれていた「献身」や「無償の愛」の精神への小さな回帰があるといえるのかもしれません。
そして、もし、新しいバレンタインデーを「友愛の祭」と呼ぶことができるなら、ヴァレンティウスという古代教会の殉教者の名が新たに積極的な意味をもちうるかもしれません。「友」ということばには、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と、イエスが告げた意味が(キリスト教においては)息づいているからです。「友愛の日」として、「ハッピーバレンタイン!」を合言葉に、バレンタインデーが深まり、広がり、生き続けるようになるとしたら、それが最後に受容されるのは教会だ、ということになるかもしれません。それも、福音宣教の一つのかたちです。これからの動向に注目したいと思います。