石原良明(AMOR編集部)
5年、という時間の尺に実感がわかないが、積み上げることができたことと、挫折せざる得なかったこと、ないし、今は途中経過を見守るしかないチャレンジがある。AMORという、修道会にも教区にも属さない、ほとんど自主的な信徒運動のwebにできることの一つは、司祭やシスター、ブラザーではない一般信徒に気軽に記事を依頼し、書き手を発掘することだ。発掘できれば、他のカトリックメディアに紹介もしたいし、長期的展望に立てばこれほど有意義なこともほかにない。信徒の召命祈願と言ってもよいくらいに感じている。
しかし当然のことと言うか、これがなかなか難しい。実際に記事を書いてもらえても、続かない。コンスタントに発信するのは大変なのだが、大切なことだ。筆者自身、他メディアで持たせて頂いている連載では筆が遅いため、担当編集様には多大な迷惑をかけている。ごめんなさい。なので人のことは言える立場にはないのだが、安定して原稿を提出することはとても大切である。
難しいことの最大の要因は、結局何をどのように語ったらいいのか分からないことだろう。これは、原稿料報酬をしっかり支払えるようになったとしてもあまり変わらないと思う。結果的に、単発でお書きいただけることをご執筆頂いて、それっきりのお付き合いになってしまう。少なくとも、私の場合は編集者として、執筆者と長いお付き合いをすることが出来ていないでいる。不徳の至りだ。結局、今のところ主要な連載の一つはプロテスタント信徒に頼りっきりになっている。もちろんそれはそれで良いことだし、頼もしい執筆者なのも間違いない。ぜひ売れっ子になってほしいと祈っている。
ところで、筆者は都内のカトリック大学で一年生向けに聖書の話をする講師を務めている(キリスト教人間学(旧約聖書入門)という授業である)のだが、講義概要の一部をご紹介させて頂きたい。一通り旧約聖書の書物としての性格をざっくり説明した後、最後の段落にこのように書いている。
このフレーズは、教え始めてから数年たつがほとんどいじっていない。中でも「聖書でものを考える」という部分には、我ながら読むたび痺れる。このフレーズに騙されて?履修してくれる学生も毎年何人かはいてくれているようである。何を言わんとしているかというと、大切なことは、聖書について知ること、そしてさらに大切なことは、その学びを通して得た世界観や人間観と、実際の生活を照らし合わせること。と言えるだろうか。「ものを考える」、というのも漠然としているが、授業は一年次必修の「キリスト教人間学」なので人間について考えること(これでも曖昧なことは重々承知している)を一応目指している、ということにしておこう。
この、一見しても少し頭をひねってみても少しピンと来ないのも、このフレーズの魅力だ。考えさせてくれる。
少し難しくなりそうなので、ここで盛大に脱線しておきたい。私はいつの頃からか、「〇〇で~~する」という構文を好んで使うようになっているらしい。単に「~~する」ではなくて。今回「聖書でものを考える」の意味を少し深めたいにあたって、この出所を思い出すことにした。
私の記憶が確かならば、この便利な構文との出会いは、吹奏楽部にいた高校時代から大学の学部生の頃にかけて、ある時読んだ、CDのライナーノーツか雑誌の批評だったと思う。20年ほど前のことである。そこにこのように書いてあった気がする。
カーティス・フラーとは、もちろん神学者ではなく、アメリカのジャズトロンボニストである。トロンボニストとしてJ.J.ジョンソンと並び称されるジャズジャイアンツの一人、評論家が好んで用いる表現でいえば「ブルーノート1500番台らしさあふれるモダンジャズのスタープレイヤー」。つまり、1950年代のジャズシーンを代表するアーティスト、偉大なプレイヤー、みたいな意味である。実際、久々に聴いてみるとパワフルな音圧と豊かな内容に圧倒される。楽器のテクニックを売りにするのではなく、まるで歌を歌っているかのように音楽を楽しませてくれる。そして自由さ。そんなプレイヤーだった。調べてみたら、昨年亡くなっていた。
ジャズでトロンボーンを吹いている、のではなく、トロンボーンでジャズをする。
この違い、落差をご理解頂けるだろうか。ジャズというジャンルがまずあって、その内々で(読みようにもよるが)たまたまトロンボーンを演奏している、のではない。トロンボーンがまずあって、それを手段に、ジャズをしているのである。「ジャズをする」、という言い回しにも力強さを感じる。確かに「ジャズ」は音楽ジャンルを意味する言葉だが、「ジャズをする」という言い方は生き方にも通じる気がする。トロンボーンの方は、確かに大事なのだが、むしろ手段であって、フラー本人の人間性、彼自身の音楽を、ジャズという音楽ジャンルを通して届けることが目的のように感じられる。
機会があったら実際にCDや何かでぜひ聴いてみてほしい。難しいことは何一つない。ジャズを身近に感じるはずだ。
さてさて、筆者は、(理解できたのはごく最近ながら)このような音楽のやり方にある程度の影響を受けたらしい。神学でも、聖書でも、それそのものが目的になるというよりは、聖書を手段に使って、まるで補助線のようにして、人間について考えること。これがしたい。授業ではある程度は成功しているようで、幸いなことに毎年何割かの学生から好評を頂いている。旧約聖書だからこそできるのだとも思っている。旧約聖書が知る人間。このあたりは、東京教区司祭で聖書学者の雨宮慧神父様の影響を強烈に受けている。
筆者はカトリックのキリスト者なので、人生と世界の答えは、イエス・キリストにあると信じている。そこにいのちが確かにある。人間が神を愛するよりも強く、神が人間を愛しているという現実を地上に実現したその人こそ、イエス・キリストにほかならない。
では、イエス・キリストが答えだとしたら、(このあたり、すっぽ抜けていることがありうることを一応強調したいのだが)問いはなんだったのだろうか。実に、「光あれ」という言葉に一縷の望みをかけたくなる人の心ではなかったか。あるいは、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフのように、家族の中で問題を抱える普通の人の気持ちじゃないのだろうか。苦難の意味を問うことは普通はしないかもしれないが、ヨブは神に問い詰めた。いろんな切り口や言い方がありうる。列王記なら、人間の問いは行政と外交、経済格差に及ぶ。「聖書」という書名に違って、立派な人たちばかりですらない。いずれにしても、人間の問い、問題がたくさんあるのに、福音宣教の場では答えが強調される。問いがすっぽ抜けていることがありうる、というのはそういうことである。そして人間の問いは、興味深い。
こういう言い方をしてしまうと、でも旧約聖書だってキリストを預言しているではないかと、お尋ねになる方もいらっしゃるに違いない。確かに。旧約だって問いだけではないだろう。しかし、預言しているとしたら、預言者たちが自分たちの時代の文脈の中で真実を述べた結果だと、私は思う。平和の君、インマヌエルは必ず現れる。イザヤはそう確信していたに違いない。しかし、イザヤが想像もしなかった形でその期待は成就されたのだ。
他にもいろいろ素朴な質問が出て来そうだ。幾層にも重なる神観や、律法はどう扱おうか。とにかく、授業を元にした連載でもできないか、かつての受講生たちとも相談しながらプロジェクトを組んでみたいとも考えている。人間の問いはリアルだし、旧約聖書はそこから目をそらさない。その点は、聖書で人間を考える際に外すことのできないファクトなのだ。そこから、イエス・キリストがいかに我々の憧れそのものなのかなどと辿り着けたら素晴らしい。途中で終わりそうだけど。ジャズミュージシャン顔負けの実力と自由さと表現力が求められる。みことばに問い続けなければならないだろう。
こうした、すっぽりと抜けた部分こそ、AMOR編集のありうるべき方向性でもあると思うから強調しておきたい。聖書やキリスト教の知識も大切だし、そうしたページにアクセスが殺到することもあるのだが、人間、いのち、生きることというテーマは、やはり避けて通れない。(なお、現状のAMORでは、福音と人間の住み分けが起きているように思える)
また、12月の会議もこのあたりが隠れた論点だったのではないだろうか。
そういえばところで、カーティス・フラーを思い出していてさらに思い出したのだが、学生時代にサークルで楽器をやっていて、自分が譜面を演奏することにはどんな意味があるのかと考えていたことがある。そこには解釈が介在するが、この解釈は数十年前のプレイヤーの解釈とは異なるであろう。そこにこそ、自分で演奏する意味がある。などと、まるで聖書の解釈学のようなことを考えていた(読書を演奏にたとえるのは文学理論の有名なテーゼでもある)。今では逆に音楽を通して神学や聖書について考えるようになった。頭が痛い。
最後に蛇足になるのだが、さきほどカーティス・フラーの批評について、「このように書いてあった気がする」と書いた。出所が気になったので、かつて手放してしまった音源を再び購入したり、東京文化会館の資料室というところに二度ほど通って20年ほど前の『スイングジャーナル』を参照したりもしたのだが、実は再び見つけることはできなかった。なんということだ。さっそく、人の記憶、時間という難問を見出してしまったらしい。
拝読させていただき、大変励みになりました。
私はいつか「極上の聖書朗読」をできるようになりたいと考えていますが、もしいろんな方がそんな活動を始められたら聞いてみたいです