特集58 “平和の祭典”はどこへ


スポーツ道を求めていこう

日本人にとっては、戦争の記憶と平和への思いが交差する夏。すべての戦争犠牲者のいのちに心を向け、その魂と対話する夏……あの夏から76年後の終戦の月を、そして、日本カトリック平和旬間(8月6日~15日)を、今年はコロナウイルス感染急拡大の中で実施されたオリンピックの喧騒とともに迎えました。五輪マーク、組市松紋のシンボルマーク、そして、新型コロナウイルスの顕微鏡写真画像と、さまざまな“輪”がテレビに交互に登場する今夏です。その無限の輪舞に心塞がれることも多かったのではないでしょうか。

「平和の祭典」と呼ばれるオリンピック。その二度目の東京開催は、当初から「?」がつきまとっていました。何で再び「東京」で? しかも、酷暑のこの期間に? 「復興オリンピック」って? 識者のコメントを通しても、真実の理念が欠如した企画であったことは明らかで、案の定、招致決定から開催まで、迷走続きであったような気がします。それを倍加させた、新型コロナウイルスのパンデミック。アスリートはもちろん、関係者すべてにとっては気の毒かもしれませんが、やはり、“混迷の祭典”と化していたようです。

自分たちの国、そして町で開催されたこの大会を経過するままに過ぎ行かせていくことはできません。その正の成果も負の重荷もずっしりと残るからです。そんな中、わたしたち「AMOR」は、この大会に関して寄せられたさまざまな声を集めつつ、オリンピック、そして、スポーツというものを、キリスト教の福音を心に留めて考えるきっかけにしたいと思いました。リオ五輪後の秋に創刊された小誌にとって、初めて向かい合うオリンピック、パラリンピックでもあるからです。

人種・国籍・国や地域の壁を越えてスポーツを通じて友好を結ぶ平和の祭典……しかし、その歴史は、戦争による中止やテロの舞台、冷戦下のボイコット合戦の場でもありました。寄せていただいているように、日本のオリンピック史にもその影が刻まれています。

スポーツが一面で、戦争・戦闘・武闘の文化的宗教的昇華であるならば、その本質には、「戦争と平和」という人類が有する本質的な問題が宿されています。であるならば、この機会に、スポーツの歴史、そして今回、未曾有の異例な開催を経験したオリンピックというものの実相をよく見つめ、考えつつ、スポーツの霊性、スポーツ道といったものを前向きに探っていくことが大切ではないでしょうか。今回はそのささやかな事始め。平和の霊性、平和の神学としてそれが深められるなら、と夢見ています。

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