雑感 一度かぎりのオリンピック少年


石井祥裕

二度目の今回の東京オリンピックが近づくなかで、自分は1964年の東京オリンピックを知っていると話すことで、まわりを「シーン」とさせる状況に何度かでくわした。周りに若い人が多い場でのことである。確実に「あれ」を知っている世代は、もう立派に高齢者と呼ばれている。そんな「あれ」を知っている世代と、より若い世代では、今回の「TOKYO 2020」に対する感じ方もまるで違うのだろう。

あの東京五輪は、北海道札幌市に住む小学4年生だった自分にとって、開会式があり、閉会式がある一つの大会、スポーツの祭典として初めて知ったオリンピックだった。その前のローマ五輪については、たった一つの断片的記憶(マラソンのアベベの姿)があるだけである。

東京1964は、開会式がすでにクライマックスだった。家には白黒テレビしかなかったところ、職場にあるカラーテレビで見られるようにと、父親に連れられて行った。あの10月10日の感動は、それ自体についてのものであると同時にカラーテレビに対する感動でもあった。10月10日は聖なる日となった。

小学4年生の少年は、当時、家で講読してくれていた『学習』(学研)のオリンピック特集(たしか付録別冊)に心を躍らせていた。たしか、各競技と代表的な日本人選手の紹介があるページには、勝敗表を書く欄もあった。テレビで主な競技を追いながら結果を書き込むという具合。重量上げ、体操、女子バレーボール、柔道、そしてマラソン。日本人選手の活躍に一喜一憂していた。東京オリンピックにおいて、テレビを媒介として、すべての家庭が劇場化したといわれる。北海道の一都市の少年も、立派にテレビの描き出す感動ストーリーの観衆となっていた。さらにその20年前の状況なら、きっと愛国少年、軍国少年になっていたにちがいない。

人種・民族・国の垣根を超えて、全世界の選手たちがスポーツ競技(力と技と精神をかけて競い合うゲーム)を通して交流するという理念がオリンピックの最良の核心であるなら、そのことを素朴に信じ、喜びとしていた少年の日。順列などかまわずに各国選手が入り乱れて入場してきた、あの夜の閉会式の感動が今でも胸に残る。

1964年東京オリンピックの聖火台のモニュメント(撮影:AMOR編集部)

だが、オリンピックが発信するメッセージに素直に同期していたのは、10歳のあの時だけだった。その後のオリンピックの歴史は、人生の四年ごとの節目を彩る背景図と化していく。もちろん幾つかの競技は好んで鑑賞するのだが、それらは、オリンピックだからというわけではない。サッカーに関してはフル代表による地域別選手権やワールドカップへの興味がはるかに勝っている。オリンピックだから観戦するわけではなく、好きな競技だから、である。

57年前の東京五輪のころは、多くの競技の最高峰がそこにあった。その後、世界大会は、至るところにあふれている。サッカーはそれ以前も今もワールドカップが最高峰である。そのほかの競技でも、それぞれの世界大会がオリンピック以上か、または同等かという具合。それがオリンピックの競技種目であることの意義もかつてとは変わってきているだろう。なんでもかんでも、なんでオリンピックを目指すと、選手たちも言うのだろう。

唯一回のことと思っていた東京五輪の記憶と一体化していた、世情に従順な少年は、もうどこにもいない。“別な”世界に憧れつつ、オリンピックの理念も伝統も、それを巡るごたごたも、メディアの語法も、狭苦しい制約としか感じられなくなっている、初老の人間が今は、いるだけである。

 


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