小林由加(上智大学夏期神学講座「宗教科教育法」担当講師、星美女子短大講師)
宗教倫理教育担当者ワークショップ(以下WS)は、ミッションスクールで宗教や倫理を担当する者にとって、すぐに役立つ知識・知恵・技術を共有できる人間で構成されたポータルサイトのようなものである。筆者は2010年に初参加して以来、参加を続けている新古参メンバーの一人だが、今回はこのWSについて紹介したい。
WSが開かれるきっかけは1980年代後半に遡る。カトリック学校から修道者が徐々に減少し始めた頃、修道者に代わって信徒の教員が「宗教」の授業を担当するようになった。教科書も資料集も決まってはいない「宗教」の授業をどのように行うのかを試行錯誤し、孤軍奮闘する担当する教員の悩みに応え、土屋至先生(現聖パウロ学園 当時清泉女学院中学高等学校)が呼びかけ人となって研修会を開いて今年で31年目となる。現在は中高の教員だけでなく、小学校の教員やプロテスタント校からの参加もあり、大学生から70代までの幅広い年齢で構成されることが多い。
私自身、中高時代の宗教の授業は全員シスター、上智大学神学部で受けた授業もほとんど司祭修道者であったので、信徒の宗教の先生という生き方モデルがなかった。信徒として神様を伝えるということが畏れ多くて、畏れ多くて、本当に自分がやってよいものかと、最初は随分悩みながら授業を行っていた。(今でも新学期前には畏れ多くて鬱気味なる)
自分の3人の子ども達がまだ幼稚園に通っていた頃、毎日の送り迎えではママ友が必然的に増える。「お仕事しているの?」と聞かれると、「えっ、まあちょっと」と曖昧に答えていた。学校で教員をやっているなどとうっかり言えば「えっ何の教科?」と聞かれる、その時は「…現代社会のような」と返事をしていた。というのも、自分の子ども達は他の園児を叩いたり、物を投げたり、満足に折り紙も折れず、忘れ物も多い。私自身もすぐにキレては帰り道に子どもを怒鳴るようなこともあり、とても教壇に立ってキリスト教の愛について語る「宗教の先生」とは言えなかった。このWSに出会うまでの私は「隠れ宗教の先生」であり、もしこのWSがなければ、私は宗教科の教員を続けることは不可能であったと思っている。
第一回以来WSの構成はほとんど変わっていない。はじまりのミサと派遣のミサの間には9つのセッションがある。以下がその流れである。
セッションⅠ(一日目午後):オリエンテーションや係決め、自己紹介。
セッションⅡ(一日目夜):宗教や倫理を教える上でのやりがい、苦労、生徒のニーズの分かち合い。
セッションⅢ(二日目午前):学校のカリキュラム、面白かった授業などの紹介。
セッションⅣ(二日目午後):用意してきた模擬授業の内容の紹介、グループで授業作成の場合もある。
セッションⅤ(二日目夜):助言者からWSのテーマに沿った話を聞く。
セッションⅥ・Ⅶ(三日目):6時間の模擬授業を行い、お互いに先生・生徒役になる。
セッションⅧ(三日目午後と夜):模擬授業の相互評価と検討会。
セッションⅨ(四日目午前):自己の振り返り。次年度のテーマ決め。
WSの優れている点を私は2つ挙げたい。
1つ目は希少生物とも言える宗教や倫理の担当者が全国から集まり、お互いに霊的に、知的かつ具体的に支え合い、励まし合えることである。そこでは、テゼの歌の歌詞にある「見よ、兄弟が共に座っている、なんという恵み、なんという喜び」(詩編133)が体現されている。私は苦しい時にここで出会った先生方のお顔を思い出し、ここで頂いた資料を眺めては乗り越えることが出来ている。
2つ目はよくある研修会のように、有識者の講演を聞いて感想を述べあって終わりではない点である。参加者の現場で実際に行った授業の教材、教案、教具、技法、歌、ゲームなどを持ち寄り、惜しみなく分かち合い、教え合い、評価し合う。この中で最も役立つシェアの方法が3日目に行われる6時間の模擬授業である。模擬授業をするのは苦しいが、生徒相手では見えない部分を教えてもらえ、一緒により良い授業を目指す作業は得るものが非常に大きい。加えて、教員という仕事には一種名人芸のような部分があり、授業案を見ているだけでは分からないような声の大きさや抑揚、生徒への顔の向け方、質問の間合いなどを見ることが出来るのは有難い。
WSは派遣のミサで終わるが、そこにはWSで得た新しい知識、教材、方法、教具などを授業で試してみたいという気持ちで満たされている自分がいる。2学期が憂鬱なのではなくて、授業でやってみたいことで頭がいっぱいになる。これを奇跡と呼ばずして何と言おう。
私はWSが倫理・宗教を担当する先生方の助けや力の源となるよう、WSに助けられた者として継続に尽力したいと思っている。