あなたに会えて良かった


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

フランシスコ教皇来日の知らせ。

プロテスタントである私は、以前上智大学の神学部に在籍していたときに初めての教皇という存在を知り、それがフランシスコ教皇でしたその存在は、私には完全に理解できないほどの、本当に信仰を生きる存在なのだと感じていました。カトリックのマリア崇敬にもどこか親しみや身近さを感じていましたが、それと同じような気持ちを教皇に抱き、しかしそれ以上に教皇のことを知りたいと強く思っていました。

教皇の来日を待ち望むという、この不思議な期間は、かなり長かったと思います。以前から、フランシスコ教皇が日本に興味を持っている話は聞いていましたが、来日の半年前ぐらいから、わずかに噂で聞いたような気がしました。ですが、全然事実起こるという実感はなかなかなく、リップ・サービスのように感じ、確かな手応えや、バチカン放送局や中央協議会からの正式な発表もなかなか出ずに、本当のことなのか、よくわからない部分ばかりでした。だけど、思い巡らすように過ごす日々の中で、実現したらいいなぁという気持ちはずっとありましたし、そんな奇跡みたいな瞬間が起こるかもしれないという期待をずっと持っていました。

私は青年活動に参加しており、真生会館で「#フランシスコうぃる」という毎月の集会がありました。食事会にはいつも欠席していたものの、毎月様々な仕方でフランシスコ教皇について考える時間や、思いを書く時間があったので、本当に良い体験ができました。

だんだんと公式サイトが立ち上がり、正式発表も出て、周りの声も大きくなる中で、ミサが抽選という衝撃の事実も発覚し、誰もが「自分は行けるのだろうか」という不安を覚えました。この「誰が選ばれるのか」という状態も、なんだかあまりキリスト教的に良くない気もしました。最初は「どうせそんなに申し込みは来ない」という謎の噂も吹聴され、私自身もそうなのかなと思いつつ応募しました。しかし、実際には思ったよりも応募が殺到したという事実が明らかになり、そのことにもかなり驚きました。確かに日本のカトリック人口は少ないとはいえ、最初の予想がどの程度だったのかわかりませんが、「思ったよりも、信者は熱心だった」のかもしれません。私は、その事実を大切にするべきだと感じましたし、そもそもこの東京で、これ以上集まる場所がないほどのイベントが起こるという事実も、なかなか興味深いと思いました。私は普段プロテスタントの教会に通っているのですが、もしカトリックの教会だったら、普段の主日ミサももっと大変だったのかもしれません。しかし、この東京ドームミサの抽選も、なんだか争いの種になって、不平等さ故の分裂を引き起こしていたら勿体ないと思います。もし希望者全員が参加するためには、野外でやる以外方法がないでしょう。それほどにも、良い意味で予想を超えた部分があったのだと思います。

 

青年との集い編。

実際の来日の期間になってから感じたことは、色々とありました。特に、38年前と全く違う部分はインターネットの力だと思います。SNSやYouTubeなど、フランシスコ教皇の到着の瞬間から、ありとあらゆる情報がその時々に即時にあがり、毎分何時間かごとに、常に新しい情報が流れる状態でした。テレビや新聞など、様々な場所で関心を持たれ、本当に不思議な状態でした。しかし、38年ぶりとはいえ、2000年以上の歴史の中で教皇が来日されたのがまだ2回目ということも、私にとっては衝撃的でした。こんな時代だからこそ可能なこともあると同時に、失った良さもあるのかもしれません。この時代の流れの中で科学技術も発展し、人々の中から宗教や神聖さ、神秘が失われたという部分はあるのかもしれません。でも、同時に、それでも「やっぱり、不思議な」ものはあるのだと思います。何でも調べればわかる時代かもしれないですが、やっぱり生で出会うとか、空気に触れるとか、具体的に存在する意味の大切さを改めて感じる部分もありました。私は不可視な部分も好きですが、目に見える神の恩恵という存在もこの世には必要なのだとわかりました。

(c) CBCJ

私が実際に教皇にお目にかかったのは、青年の集いへの参加のときでした。そこでも「こんなにカトリックの青年がいるのか!?」という衝撃はありました。私は日本のカトリックのミサの厳格な空気も好きなので、青年のテンションの高さに結構驚きました。「ビバ・フランチェスコ!」というコールもそうですし、あまり馴染みのないテンションだったので、異文化体験な気分でした。確かに、世界中のプロテスタントの中には割とお祭りのようなテンションの集会もあるようですが、私は参加したことがなかったので本当に衝撃的でした。同時に、若者にはこのような熱狂的なイベントが好まれるのかと考えました。こういう一時的な熱狂もどうなのかと疑問でした。

さらに、「この人たちにとって、教皇とはどういう存在なのだろう?」と感じました。確かに、私も個人的に好きな先生や大事にしている存在はいますが、アイドルや有名人のような存在でもないですし、教皇に対して歓声を上げるのも変に感じました。もちろん、近さや親しさも大事ですし、そのフランクな優しさがフランシスコ教皇の良さなのですが、かなり複雑な気持ちもありました。確かに、歓迎はしているし、私も嬉しいのですが、なんだか周りと温度差もあるように感じました。スマホで写真や動画を撮るのも不誠実に感じてしまうし、私の考えている対応の方が、逆にフランシスコ教皇を神格化しているような気がして、それはそれで変に感じました。ホサナホサナとイエスを歓迎する人々のように、なんだか本当にそれでいいのかと思う気持ちもありました。あと、この人たちは普段ちゃんと主日のミサに来ているのかな、とも思いました。

でも、折角日本にまで来たのに、あまりに青年がみんな冷静すぎてもきっとフランシスコ教皇はがっかりするだろうし、テンションはそれぞれの国で違うだろうし……といろいろ考えてしまいましたが、正解なんて存在しないだろうから、これはこれで正しかったのだと思います。

講話の内容については、自分が小さい頃にこのような存在に出会えたら良かったのにと感じました。私が大学に入るまではインターネットもそこまで発展していなかったので、家か学校かテレビで得た情報がほとんど自分の価値観や世界観に直結していました。あのころ、フランシスコ教皇みたいな柔軟さや寛容さ、共感性の強い存在がいると知っていたら、将来への生きる希望になったのだと思います。「そういう人間が事実存在する」という現実へのインパクトは相当あるのだと感じます。確かに、目の前に見える現実よりも、SNSの中の友人や繋がりにばかり心が向いてしまう若者も多いでしょう。フォロワー数やいいねの数を稼ぐことで承認欲求を満たす方が大事な人も多いのかもしれません。それに、そもそも子供を育てるはずの大人自体が、この世界に対して何の喜びや希望がないのも問題であると感じます。

また、「誰のために生きているのか」「何と時間を共有しているのか」ということは、「分かち合うとは何か」ということの本質のように感じます。そして、正しい問いをみつけること。それは、学校生活だけではなく、教会やあらゆる場面で遭遇する出来事でしょう。疑問や不条理に対して、正しい選択を通して解決することは大事だと思います。ただ悪口や文句を言うだけではなく、建設的な意味でその謎に立ち向かうこと。探偵物語の解答編のように、自分たちと神様との関係や他者との交わりの中で生まれる問いにも、今は答えがわからなくても後でわかる日が来るのでしょう。自分の人生の中の謎や、自分の中にあるのに、自分にすらずっとわからないもの。だけど、それがいつか分かる日が来る。永遠の解答編は存在するのだと思います。永遠の問いは永遠の問いとして、自分の人生の時間の中だけでは解決しないのかもしれません。だけど、Google検索をかけてもまだ解決出来ない謎がこの世には存在するのも事実です。そのような揺らぎのある世界を改めて感じた時間でした。現代社会には社会全体に発言力のあるインフルエンサーという人種もいますが、いい意味でフランシスコ教皇はインフルエンサーなのだと思います。善い影響力は今この世界において、本当に必要な力なのでしょう。

 

東京ドームミサ編。

到着してまず感じたことは、思ったよりも友人がその場にいたこともそうですし、目の前に広がる無数の人々の姿のあまりにも現実感のない景色でした。私は生きている中で何度も奇跡のような瞬間を目の当たりにしましたが、今回のことは、改めて自分の人生の中の信じられないものの一つになりました。でも、周りの気持ちもなんだか不思議でした。「カトリックで良かった」とか、なのか。それとも「パパ様いつもありがとう」なのか。私は、普段の大学の小さいミサも好きですし、自分の教会の礼拝も他であずかる礼拝も好きなのですが、なんだか今ここで更に神を強く感じているのか、不思議な気持ちでした。それは本当に「信じる気持ち」なのかな、という部分もありました。東京ドームはお御堂ではないけど、神さまはちゃんと居るのか、とも。でも、自分よりも周りが喜んでいる気がしたので、それはそれで本当に喜びを感じました。誰も報われる期待をして洗礼を受けるわけではないのに、こういうことも起きるという恵みの体験でした。

ミサの中で祈りや言葉が多種多様な言語で満ちていて、本当に全てに捧げられているミサなのだと感じました。私たちが日々、自分の力だけで生きているのではなく、誰かが作ったものを食べ、誰かが作った電力やモノを通して、自分の知識ではない誰かの情報も取り込みながら、気付かない所で誰かと支え合って生きている。その感覚は、信仰も同じなのかもしれません。信仰は、響き合うものだと感じます。誰かとの具体的な出会いや、実際に共に生活をして語り合う中でわかる側面もあります。でも、それは何故なのでしょうか。

過去の聖人や福者、信仰者たちの影響を受けながらも、実際には今この同じ時間や空間を共有する影響の大きさを感じます。誰かの望みになったり、予期せずに叶えたり、そういう繰り返しだと思います。フランシスコ教皇だって来日の理由は色々とあるのでしょうが、そのフランシスコ教皇という存在に触れるだけで、例え本人は気付かないところでも、それだけで満たされる人もいるし、明日からの生きる希望を持つ人もいる。それはこの上ない神からの恩恵なのだと思います。自分の知らない所で紡がれた祈りがその相手に伝わらなくても、虚しく空中分解せずに、何かしら意味を持つこと。そのような意味で、神に繋がるという、ITよりも強い、目に見えない関係性を感じました。

あなたが、いたずらっぽく笑ったり、その優しい目で見つめたり、その口から出る一つ一つの言葉の中に、神からのものを感じる。

本当に、そうなのだと思います。

誰もがただ目にしただけで涙を流すのは、あなたが偽物ではなく、本物だからなのだと思います。この世界の全ての教会を支配するというよりも、配慮する存在である以上、本当に神の民を愛することが強くわかりました。

誰よりも神に近い存在であって、人々から愛されること。

でも、私は、これを読んでいる「あなた」も、誰よりも神に近い存在だと思います。

例え叙階を受けていないとか、修道者ではないとか、プロテスタントだとか、キリスト者の一人でしかないとか、そういうことではないと思います。あなたがミサや礼拝で祈るとき、歌うとき、どんなに小さな共同体でも、一人で祈るようなときにあっても、いつも天の父は、神は、東京ドームミサぐらいの感動を受けていると思います。あなたが出る一つ一つのミサの中で、神はいつもこんな気持は二度とないぐらいに、喜びに満たされると思います。だから、この東京ドームミサが「あの時は良かった」という過去の思い出になるのも変に感じます。あの瞬間にしか神を感じられないというのもどうかと思います。神は今も生きているし、何よりも神が今も生きているからこそ、この現実があらわれたのでしょう。

フランシスコ教皇という存在に、確かに生で触れられたことは、本当に喜びです。

そして、それと同時に感じたことは、
私たちはどれだけ、ただ無条件に無償で受けた洗礼を理由に救われるのか。
なぜ私たちは、それだけを理由に相手を信じ、そして愛するのか。
どうして何の知識も経験もないのに、神を知ることができるのか、ということでした。

私自身、まだ神学を学び、成長途中の存在ではありますが、無神論や信じることを忘れて自己中心的な色に染められるこの世界の中で、どれだけ語る言葉の幅を拡げられるのか、現代の人々に伝わる言葉をどれだけ習得できるのか、改めて感じるようになりました。フランシスコ教皇のように、実際の語りや書物を通しても表現できるようになりたいと私自身も思いました。

この不思議な2日間が、きっと、これから先の私を構成する新しい希望の糧として、ずっと私の内に生き続けると思います。それが、また明日からの一歩に進むための大事な信仰の種なのですから。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

twelve + 2 =