第2回ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展


いとうあつし(清瀬教会主任司祭)

 いささか旧聞に属する話ではありますが、寒風吹きすさぶ1月23日、外国人観光客で賑わう浅草吾妻橋のたもと、墨田公園リバーサイドギャラリーで開催されていた「第2回ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展」に行ってきました。
「アリの街」とは、戦後間もない1950年から1960年までの間、現在の隅田公園の一角にあった廃品仕切場の呼称です。戦災によって経済的に困窮し、廃品回収で生計を立てていた人たちが集まり、「蟻の会」という生活共同体をつくって、互いに協力し合いながら家族ともども共同生活を送っていました。

ゼノさんはポーランド人で、コンベンツアル聖フランシスコ会の修道士でした。のちにアウシュヴィッツ収容所で他人の身代わりとなって処刑された聖マキシミリアノ・コルベ神父らと、1930年に来日しました。長崎で『聖母の騎士』誌の出版を通して宣教に努め、戦後は戦災孤児らの救援活動に尽力していましたが、求められてアリの街に関わり、その支援に力を注ぐようになりました。

北原怜子さんは、東京の恵まれた家庭に生まれ育ちました。20歳で受洗、さらに修道生活を志しましたが、肺結核に倒れて断念、失意のうちにあったところでゼノさんと出会い、アリの街の特に子どもたちのために奉仕するようになりました。彼女の活動は「蟻の街のマリア」としてマスコミにも取り上げられ、その名を知られるようになります。結核の療養のため、一度はアリの街を離れましたが、さらに病状が悪化するとアリの街に移り住み、そこで28年の生涯を終えました。

資料展では、そんなアリの街の様子やゼノさんと北原怜子さんの姿を収めた写真約70枚、当時の新聞や雑誌の記事、さらには北原怜子さんの胸像をはじめとするアリの街ゆかりの物品が数多く展示され、大勢の来場者が見入っていました。

この資料展を企画したのは地元浅草の方々で、彼らはカトリック信者ではありません。それどころか、最初はゼノさんのことも北原怜子さんのことも知らなかったそうです。しかし、ルポ『風の使者ゼノ』(石飛仁著)を読んで感銘を受け、このような素晴らしい人たちの存在と活動を、若い人たちにぜひ伝えたいとの思いで企画し、ポーランド大使館やローマ教皇庁からの協力も得て実現させたのだそうです。

 この日は、北原怜子さんが亡くなって60年目の命日ということで、資料展の最後に全員で隅田公園内にあるアリの街の跡地まで移動し、追悼式を行いました。写真を飾り、ろうそくを灯し、聖歌を歌い、献花をしました。

ストラだけ掛けてそこにいればいいと言われていた私は、端の方でお飾りとしてボサッと突っ立っていたのですが、突然司会者に祈れと言われ、へどもどしてしまいました。しかし、そのおかげで心に残る思い出深い追悼集会になりました。


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