パラクレートス(助け主)である聖霊

聖霊とはなにか、とてもわかりにくいとされている。そもそも「聖霊とはなにか?」という問いかけにクレームがきそうである。「聖霊は人格(ペルソナ)だからなにかではなくてだれかではないか」と。ま、そうカタイこといわずによんでほし Continue reading


山上の説教と平地の説教を読み比べてみるとおもしろい

前回はマタイ福音書5章のいわゆる「山上の垂訓」の「心の貧しい人は幸い」という箇所について述べた。今回はそこの併行箇所であるルカ6章20節以降の「平地の説教」とマタイ5章の「山上の説教」と読み比べてみよう。 まずこの文を先 Continue reading


1614年長崎のレント(四旬節)と村山等安

1614年は、高山右近や内藤ジョアン、原マルチノ、ペトロ岐部らのキリシタンが日本からマニラやマカオに追放された年である。12月のことであった。 その年のレント(四旬節)に長崎で何が起こっていたのか、歴史上にはほとんど現れ Continue reading


マルコ福音書の描くイエスの感覚性と人間性

前回に続き、マルコ福音書の「感覚性」について、こんなところもあります。子どもたちを祝福する場面です。 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。 Continue reading