聖霊とはなにか、とてもわかりにくいとされている。そもそも「聖霊とはなにか?」という問いかけにクレームがきそうである。「聖霊は人格(ペルソナ)だからなにかではなくてだれかではないか」と。ま、そうカタイこといわずによんでほし Continue reading
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マリアのlet it be
中学3年生の「宗教」で「聖母マリア」を読む マリアを取りあげる授業はビートルズ「Let it be」を聞くことからはじめる。 「この歌知っている人?」 ときくとほとんどが手を挙げる。いつになっても不朽の名作だと思う。 「 Continue reading
復活したイエスと出会った弟子たち
まず、「イエスの復活」についての次の5つの聖書の箇所を読んでほしい。 1. イエス、女性たちの前に現れる (マタイ28章1~10節) 2. マグダラのマリアに現れる (ヨハネ20章11~18節) 3. エマオで弟子たちに Continue reading
イエス弟子の足を洗う
イースター前の1週間を教会では「聖週間」と呼んでいる。その木曜日の13日は「聖木曜日」(英語ではなぜかこの日を Good Tuesday という)といい、普段とは異なる特別な典礼が行われた。 この日、イエスは弟子たちと「 Continue reading
山上の説教と平地の説教を読み比べてみるとおもしろい
前回はマタイ福音書5章のいわゆる「山上の垂訓」の「心の貧しい人は幸い」という箇所について述べた。今回はそこの併行箇所であるルカ6章20節以降の「平地の説教」とマタイ5章の「山上の説教」と読み比べてみよう。 まずこの文を先 Continue reading
1614年長崎のレント(四旬節)と村山等安
1614年は、高山右近や内藤ジョアン、原マルチノ、ペトロ岐部らのキリシタンが日本からマニラやマカオに追放された年である。12月のことであった。 その年のレント(四旬節)に長崎で何が起こっていたのか、歴史上にはほとんど現れ Continue reading
心の貧しきものを考える
マタイ5章3節の「真福八端」の「心の貧しいもの」という表現が気にかかる。 この「心の貧しきもの」という表現は日本語の一般的な用法とは異なっている。日本語では「経済的には豊かでも心が貧しい」というような否定的な意味で使われ Continue reading
高山右近と霊操
土屋至 加賀乙彦著「高山右近」(講談社文庫、2016年刊)を読んだ。この書は高山右近の後半生、加賀藩へ客将として迎えられたときから追放、さらに死の場面までを描いている。とくに右近が霊操をしていた場面が詳しい。 「霊操」と Continue reading
マルコ福音書の描くイエスの感覚性と人間性
前回に続き、マルコ福音書の「感覚性」について、こんなところもあります。子どもたちを祝福する場面です。 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。 Continue reading
ペトロのしゅうとめ
イエスは4人の漁師(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)を弟子にしたあとにペトロとアンデレの家に行った。ペトロの姑が熱を出して寝ていたのでイエスはその病を治した。 ペトロに姑がいたということはペトロは結婚していたということ Continue reading