矢ヶ崎紘子(AMOR編集部)
日常生活において、お酒は両義的なものです。大勢の人がお酒を飲むことを楽しみにしていますし、お酒を通じて友人を作っていますが、他方、アルコールを通じて仕事、家庭が破綻することもよくあります。筆者はお酒をたしなみますが、お酒は良いものでしょうか。それとも、飲まないほうがいいような、悪いものなのでしょうか。
また、お酒を一緒に楽しむ友人たちから、「クリスチャンはお酒を飲んでいいの?」と訊かれることがあります。お酒を飲んではいけないと教えられて育ったクリスチャンに出会うこともあります。そうかと思えば、並み以上に呑むクリスチャンの共同体もあります。クリスチャンはお酒をどう考えたらよいのでしょうか。
カトリックでは、ミサにワインが必要なこともあり、お酒そのものを禁じることはありませんが、北米で禁酒運動とともに歩んできたプロテスタント諸派の中には、さまざまな考えがあるようです。この記事では、宗教改革者カルヴァンの系統に連なる、アメリカの改革派の牧師、ジム・ウエスト師によるDrinking with Calvin and Luther! A History of Alcohol in the Church(『カルヴァンとルターと飲もう! 教会における酒の歴史(仮訳題)』)という面白い本を紹介いたします。
この本は、大人のユーモアと説教のまじめさを織り交ぜながら、お酒にまつわるカトリックの聖人のエピソードから、絶対禁酒主義者であったと思われているプロテスタントの著名人がお酒を愛した話、ルターやカルヴァンが登場する笑い話、スーパーで売っているビールやワインの格付けなど、てんこ盛りの楽しい内容を紹介していますが、ここではややまじめに、お酒の神学というべき部分を取り上げてみましょう。
ウエスト師によれば、禁酒主義者たちは、お酒そのものを悪だと考えています。しかし師は、お酒の飲みすぎが悪をもたらすのであって、お酒そのものを悪と考えるのはまちがっていると指摘します。なぜなら、善なる神が悪を創造したはずがないし、もしお酒そのものが悪であったら、聖書が福音をワインにたとえたはずがないからです。
たとえば、有名なイザヤ書55章にこうあります。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
(新共同訳)
福音は無尽蔵で無償のワインにたとえられています。これは、ワインが福音の無限の喜びの比喩にふさわしいことの証です。また、カナの婚礼でイエスは水をワインに変えて祝福を表しました。これも、ワインが最上の祝福の表現にふさわしくなければ、ありえなかったことです。
お酒を飲むとわたしたちの心はやわらかくなり、喜びによって広がります。このことは、お酒が人間の喜びのために神様から与えられたことを示しています。そしてこの喜びの気持ちによって、神を賛美するようにとウエスト師は教えています。さらに、お酒は人間の心を喜ばせるばかりでなく、神を喜ばせるものであるとさえ指摘しています。
やけ酒という飲み方があるように、世の中でお酒を飲むときは、いやなことを忘れようとしていることが多いのに対して、クリスチャンは、「わたしの記念としてこのように(ワインを用いて)行いなさい」「二人、三人がわたしの名によって集まるときには、わたしもそこにいるのだ」というイエス・キリストの言葉を忘れるわけにはいかないのです。クリスチャンが集まってワインを飲むときには、キリストを思い出すためにそうするのです(ふだん意識しているでしょうか?)。
しかし、あまりたくさん呑むと、具合が悪くて神を賛美できず、キリストを思い出すことができないばかりか、問題を起こして、翌日にはすべてを忘れていることになりかねません。お酒そのものは悪ではありませんが、過度の飲酒は悪い結果をもたらします。ウエスト師はこのように教えています。「われわれは、節度を守って呑むことで、度を越して神を賛美することができるのだ」。
ウエスト師によれば、酒を悪と考える姿勢は、神の恩恵を拒んでいる状態です。ずいぶん強い言い方ですが、それはお酒が善いものであること、創造が善であること、神が善い方であることを強調しているからです。
よいお酒はわたしたちのこころを広げ、隣人と結びつけます。そして、その喜びを人間の間だけで終わらせず、わたしたちに恩恵としてお酒を与えた神を賛美し、神とともに楽しみたいと思います。
(酒によって)主は賛美されますように!
*本稿は禁酒している方に飲酒を勧めるものではありません。
【参考】
Jim West, Drinking with Calvin and Luther! A History of Alcohol in the Church, Lincoln, CA:Oakdown, 2003.
(2019年5月脱稿)