戦争と神父(2)2度の大戦を軍人として体験したカンドウ神父


戦争と神父の関わりという点で、思い起こされるべきもう一人は、ブスケ神父と同じくパリ外国宣教会の司祭ソーヴール・カンドウ神父である(1897~1955。日本語表記カンドーもあり)。戦後の著作活動、講演活動などで、カトリック教会の枠を超えて知識界・読書界で有名だった神父である。ここでは、二度の大戦に軍人(将校)として関わった人であった点を注目したい。聖パウロ修道会の池田敏雄神父編『カンドウ全集』全5巻・別巻2巻(中央出版社[現サンパウロ]1970)が有益かつ貴重な資料である。その別巻3『昭和日本の恩人 カンドウ神父』(1966)から生涯の主なポイントに注目してみる。

 

フランス・バスクの出身

カンドウ神父は、1897年、フランス西南部バスクのサン・ジャン・ピエ・ド・ポールという町に生まれる。スペイン・バスク出身のザビエルの家系の縁者が生家の近くに居住しており、往時はザビエル自身もこの辺りに来ていたことがあるという。カンドウ神父を日本宣教へと押しやる一つの縁となる。

 

第1次世界大戦に従軍

1914年バイヨンヌの大神学校に入学した直後、第一次世界大戦が始まり、サン・シールの士官学校に転学。1916年、19歳のカンドウは、陸軍歩兵大尉として、ヴェルダンの激戦地に出動した。当時の戦時体験は『世界のうらおもて』に記されている。

 

リジューでの出会い

1916年の休暇中の出来事。父親の病気回復のためのとりつぎを聖テレジアに願うため、リジューに巡礼したとき、「聖心の使徒」として巧妙なペルー人司祭マテオ・クロレー神父と出会う。カンドウが司祭になるにあたって大きな影響を及ぼす。

 

カンドウ神父(出典:池田敏雄『昭和日本の恩人 カンドウ神父』)

宣教師となる

1918年にはフランドル戦線で、苦戦の連合軍を救出した功績を表彰されたカンドウ少尉は1919年召集解除となる。幼少期から日本に行きたいという望みをもっていたカンドウは、パリ外国宣教会の司祭となることを決心する。父親は「聖フラシスコ・ザビエルの黴菌が、この家に持ち込まれていたのではしかたない」と言って許してくれたという。

 

来日

1923年12月22日に司祭に叙階され、1924年秋、日本派遣が決定。年末にマルセイユを出帆し、1925年年1月21日、横浜港に上陸。日本語を学んだ後、1926年、当時関口にあった神学校の校長に就任する。そして、1929年、現在の練馬区関町の地に新設された東京大神学校の発足とともに、その初代校長に任命される(当時32歳)。これら神学校の校長という役割をとおして多くの日本人神学生、後の司祭たちに大きな影響を及ぼすことになる(ちなみに今年2019年は、関町に神学校ができて満90年。2009年には「日本カトリック神学院東京キャンパス」となったが、今年再び戦後からの名称「東京カトリック神学院」に戻った)。

 

司祭の兵役についての考え

東京大神学校で活躍していたなか、1939年、第2次世界大戦が勃発し、カンドウ神父は陸軍中尉として召集される。もともと軍人であり、召集解除となってから司祭となっていたところ、再び召集がかかったというように語られている。司祭が軍人として召集されるという事態について、フランス国家の事情として自身が語っているところがある。

「19世紀の半ばごろからフランスのごときキリスト教国においてさえ、カトリック教が力を失ったかにのように見えたことがある。……なるほど、この時代には卑劣な反聖職者主義が妙に流行してきた。そうして、無信仰者は宗教家を蔑むことによって、宗教と民衆とのへだたりを広げようとした。そのときまで宗教家の持っていたすべての特権を無くそうとした。宗教家は宗教家とみなされず、一般市民と同様にあつかわれだしたのである。

ところが、この計画はちょうど反対の結果を生ぜしめた。司祭は他の国民と同様に兵役の義務を果たさねばならぬとか、教会は政府と没交渉で積極的な援助を受ける理由はないということになると、宗教家に対する多くの誤解は自然と解けてしまった。欧州戦争のとき、司祭は普通の戦闘員として戦争に参加し、みなとおなじように塹壕生活をしなければならなかった。これは、フランスの教会にとって損ではなく、大きな得であった。フランスの聖職者に関する『殊勲者名簿』は最も良い現代の護教書である。戦争最中ほどフランスの司祭が一般国民と親しんだことはない」

(1938年11月発表「現代とカトリック」『カンドウ全集』第5巻 181 ~182 ページ)

そして、この考えで、すでに日中戦争期であった日本における司祭や神学生への召集の意義を語っている。

「われわれは数ヶ月前から若い司祭や神学生が続々出征するのを見て一種の淋しさを禁じ得ないが、同時にまた一種の喜びと誇りを感ずるのである。いまかりに数百人の司祭と神学生が皇軍の各部隊に入って活動するとしてならば、これはどれほど良いアポロジェティカ[=護教]になるであろうか!」

 

第2次世界大戦従軍で瀕死の重傷

カンドウ陸軍中尉は、1940年3月フランス北部戦線に派遣される。5月24日、アルデンヌ前線への連絡で車を走らせていたとのことである。

「するとどこからともなく敵機が現われ、車に襲いかかったのである。一瞬にして車は吹っ飛び、カンドウ中尉は、頭に数カ所、下半身に四十数カ所の爆弾創を受けた。救援のこぬまま夜をあかした払暁、霧の中から敵のタンク[=戦車]が現われ、あっと思う間に乗りかかってきた。身をひるがえすいとまもなく、右腰はキャタビラに砕かれた」

(池田敏雄『昭和日本の恩人 カンドウ神父』151 ページ)

 

療養生活

味方に救助され、10時間生死の境をさまよったのち、48時間汽車で故郷に近いタルブの陸軍病院に運ばれ、看護を受けて九死に一生を得る。後にヴィシーの陸軍病院に転院。1941年2月、親友の岩下壮一神父逝去の報を受ける。12月には太平洋戦争突入の報も。フランスは1940年6月以来ドイツ占領下にあり、ヴィシーに移っていた政府要人も捕らえられ終身禁固刑となり、ボルタレー要塞に拘留される。この要塞で、カンドウ神父は、これら要人たちの指導司祭として、傷半ば癒えただけの身体をもって活動する。やがて、腰は大々的な整形手術を要すると診断され、1942年10月スイスのローザンヌの病院で手術を受けた。

 

ローマ滞在から帰日へ

1943年初め、在バチカン日本特派使節館から顧問就任を招請され赴任。ローマでイタリアの降服を経験し、ドイツの降服、そして日本の降服を聞くことになる。1948年になって、カンドウ神父は帰日を決意、米国経由で9月11日帰国。1955年9月28日逝去までの活躍は略す。
戦前戦後のカトリック思想史に足跡を刻んでいるカンドウ師の人生そのもの、そしてその著作も、20世紀という時代の貴重な証言であることは間違いない。

(構成:石井祥裕/AMOR編集部)


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