戦争と神父(3)志村辰弥著『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』が伝えるもの


カンドウ神父が関口の神学校の校長だったとき、1926~1928年の3年間、ラテン語と哲学を学び、その薫陶を受けた神学生の一人が後の東京教区司祭・志村辰弥(しむら・たつや)神父(1904~1997)である。志村神父には『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』という書がある。1971年中央出版社から発行、その後、1991年、聖母文庫に収められている。1935年から1949年までの出来事が「わたし」の見聞・体験として語られている。淡々と出会った事を語る記述に添えられる思いも一つの証言である。前後して語られる主な出来事と記述を時系列でピックアップしてみよう(☆マークのところはあとで情報を補足している)。

 

戦前
1932~35年 大島事件」(奄美大島での外国人宣教師追放など、カトリック教会に対する弾圧 ☆1)
1937年12月 東京大司教に教皇使節館秘書土井辰雄師任命(長崎に続いて2番目の邦人教区誕生)
1939年4月 「宗教団体法」成立・施行
1940年11月 「公教要理」改訂(これに至る文部省宗務課検閲官との交渉)
1941年5月 「宗教団体法」に基づく「日本天主公教教団」設立認可(それに至る文部次官、宗務局長、宗務課長との交渉の模様。信徒である元海軍少将山本信次郎氏(☆2)が同席したこと。認可の意義が「神、仏の諸宗教と同様に法的権利を獲得したので、布教上有利になった」と語られる。教団事務所は天主公教総務院で「戦勝祈願祭や戦没者慰霊祭の挙行、種々の練成会の開催、視察や慰問の実施に関する伝達、斡旋。司祭や修道者の徴用、スパイ嫌疑による抑留者の措置、教会・修道院・学校その他の施設の戦集などについての関係官庁との折衝」などに当たった)。
1940~41年 カトリック全教区長の邦人化(外国人宣教師に依存している日本の教会が弾圧を受けて壊滅しかないとの懸念から、教皇使節マレラ(1895~1984)の指導に基づく実施。「日本の教会史上に特筆すべき大事」であった)。

 

戦時
1941年8月 フィリピン宣撫班の派遣を参謀本部から要求され、大阪教区長田口芳五郎師とともに出頭した次第。これはフィリピン占領後の統治に協力するためのもの。これに対して、信徒の自由意志での応召を募る役目が志村神父に任せられた。全国を遊説して募り、司祭3名、信徒8名[そのうち神学生が5名]が決まり、開戦後の12月24日、フィリピンに上陸(☆3)。
1941年12月~ 開戦とともに始まった敵国宣教師・修道女の軟禁(東京では、関口の小神学校が修道女、プロテスタント宣教師、一般婦人など女子だけを80名収容、北浦和のフランシスコ会修道院がフランシスコ会、ドミニコ会の司祭たち30名を収容した次第)。
1942年1月 田口大阪司教が陸軍参謀本部からフィリピン宣撫のために徴用された次第(このときの宣撫班部隊には三木清、岡本太郎、獅子文六もいた。フィリピン政府に日本軍進出の真意を了解してもらうことが主務。その一環としてマニラで高山右近の頌徳祭ミサが催行された)。
1943年3月10日 パリ外国宣教会ブスケ神父、憲兵隊により検挙。過酷な尋問を受け病死。
1943年8月 インドネシア宣教に広島教区長荻原晃師(イエズス会司祭)が団長となって赴任(ドイツ人宣教師がオランダ人によって追われた後、司牧者を失った現地信者のためのもの。海軍省南方司令部からの要請への対応であった。荻原師は終戦まで2年半活動(☆4)。
1943年11月23日 日本政府の要請で香港への宣撫に派遣された横浜教区長井手口美代市師、シャルトル聖パウロ修道女会の西田キチ修道女と荻島礼子修道女らが神戸から出発したが、香港港外で機雷に接触して船が沈没、殉職した。
1943年末 横浜の戸塚にあるマリアの宣教者フランシスコ会修道院が海軍衛生学校開設のために強制接収された。
1944年7月 関口の東京大司教座事務所に併置されていた「天主公教総務院」が市ヶ谷田町の山本信次郎氏]1942年3月逝去)の邸宅(現在、援助修道会本部のある所)を借用することになり移転。志村神父は庶務部長に就任(当時は「スパイの容疑で、憲兵や特高からの厳しく監視されていた」)。
1944年9月 国民の精神高揚を図るために文部省に「大日本宗教報国会」という外郭団体が設立され、そのキリスト教局庶務部長に志村神父就任(報告会の仕事は「新体制下における神仏基各宗派の協力一致、信仰を通しての国民精神の高揚、宗教教師の練成、出生将兵遺家族の慰問および扶助。戦没者の慰霊、空襲その他の災禍被害者の慰問など」)。
1944~1945年 暁星学園、雙葉学園、白百合学園の学徒動員、疎開の記録。
1945年4月 東京大神学校[現練馬区関町所在]は、この年初め、校舎半分が陸軍通信隊に接収され、校舎周囲に高射砲を備える対空陣地が設置された。これが探知され爆撃が始まる。4月12日の西東京地区大空襲で二人の神学生が死亡した。
1945年5月 25日の2回目の東京大空襲で、大司教座の関口教会が全焼し、小神学校に抑留されていた外国人は中落合の聖母病院に移動した。
1945年 名古屋空襲を名古屋教区長館で志村神父自身、直接体験した。
1945年8月9日 長崎への原爆投下。永井隆博士の体験とその後のこと。
1945年8月15日 終戦の詔勅(玉音放送)を聞いたときの志村師の思い:
「戦勝国が支配するようになれは完全な信仰の自由が得られるだろう。……これからは大声をあげて、キリストのメッセージを伝えることができるだろう。これこそ、心身を打ちくだかれた同胞を救う唯一の道ではないか! われわれは今こそ勇気をもって宣教に立ちあがらねばならない。……戦争が12月8日、聖母マリアの無原罪のおんやどりの祝日に始まって、8月15日、被昇天の祝日に終わったというのは、何か深い意味があるように思われる。日本は早くから聖母マリアに献げられた国である。聖母はこの戦争の絶えがたい試練をとおして、日本国民を救われる意図ではないだろうか」

 

戦後
1945年8月18日 横浜教区長戸田帯刀師、保土ヶ谷教会で、憲兵により射殺(☆4)。
1945年8月 メリノール宣教会バーン師、米軍進駐に対して猜疑や恐怖に陥っている日本国民のために朝日新聞を通じてメッセージを発信し、混乱回避に貢献した次第。
上智大学のビッター師(イエズス会)が教皇使節代理に任命され、連合国司令部からも承認。バチカン代表となる。天主公教教団総務院が上智大学に置かれる。
1945年10月 宗教団体法が4日に廃止され、28日に新しく宗教法人令が発布された次第。
1945年11月 28日から3日間、上智学院で全国教区長会議開催。「天主公教教団」を解散し、「天主公教教区連盟」が設立される。志村神父は教区連盟事務所総務部長に就任。
1946年1月 カトリック復興委員会がバーン師、ビッター師の尽力で設立。占領軍司令部からも承認され、委員長にビッター師が就任した(宣教師・修道者の派遣の依頼。物資の入手手配、建物の復興、コンセット・ハット[カマボコ型の組み立て式建物]の購入などにあたる)。
ビッター師が東京裁判を司るキーナン検事長から天皇の戦争責任に関して起訴すべきか否かについて意見を求められた際、国民感情を考えて訴追すべきではないと具申。
1946年11月 連合国司令長官マッカーサーよりバーン師(米国のカトリック宣教師団代表として)、ビッター師(バチカン市国代表として)が靖国神社廃止問題について意見を求められた際、二人が、靖国神社は、単なる神道上の霊廟ではなく、国民的尊敬のモヌメントであること。国民を精神的混乱から救うためにも、存続を希望すると答申した。
1948年 ザビエル渡来400 年祭の企画がカトリック復興委員会委員長ビッター師を主導で企画され、全国教区長会議で賛同を得た(これは「日本再建のための精神的活力を与えること、キリスト教精神を普及させることを目指したもの」であった)。
1949年 1月に「カトリック教区連盟」(前年「天主公教教区連盟」から改称)のもとに同祭典準備委員会発足。5月29日長崎でザビエルの聖腕祭典が始まり、6月12日東京祭典が明治神宮外苑競技場で挙行された。
「わたしはその頃、聖母病院に入院して東京祭典にあずかれなかったが、祭典日から2、3日してフィステル師が聖腕を抱いて病院まで来られ、その機会に、病室に聖腕を迎え、接吻させていただく光栄に浴した。」

ザビエル400 年記念祭が一連の出来事のクライマックスとして語られ、これが大々的に行われた背景や経緯が非常によくわかる構成になっている。軍国日本への対応を迫られた当時の教会や関与した人の思いや表情までも伝える。

 

【補足】

☆1 奄美大島でのカトリック弾圧事件に関しての検証はカトリック教会内でも歴史学会の中でも進められている。以下を参照。須崎愼一著『日本ファシズムとその時代』(大月書店 1998)、宮下正昭『聖堂の日の丸 奄美カトリック迫害と天皇教』(南方新社 1999)、日本カトリック正義と平和協議会『奄美でカトリック排撃運動はなぜ起こったのか』JP BOOKLET 正義と平和講演録 No.6(カトリック中央協議会 2014)。

☆2 大正期から昭和前期までの日本のカトリック教会の活動のさまざまな局面で触媒のように活躍した海軍軍人でもあった山本信次郎氏については、山本正著『父・山本信次郎伝』(中央出版社[現サンパウロ] 1993)がある。また、カルメル修道会の大瀬高司師が今年2019年の『福音宣教』誌で「カトリック信仰に生きた愛国者・ステファノ山本信次郎」を連載中。

☆3 このときの宣撫班司祭の一人であった東京教区の塚本昇次師はこの体験を『従軍司祭の手記』(中央出版社 1945)に綴っている。

☆4 荻原晃師は、インドネシアでの活動した戦時体験を『戦争と宗教:不思議な摂理』(信友社1966)、『私の絵日記:南方諸島をめぐって』(信友出版社 1984)で伝える。

☆5 戸田帯刀師射殺事件については、『福音と社会』(カトリック社会問題研究所発行)での連載をもとにした佐々木宏人著『封印された殉教』全2巻(フリープレス 2018)を参照。

(構成:石井祥裕/AMOR編集部)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

twenty − five =