キリシタン迫害がもたらした功罪


大瀬高司(おおせ・たかし/カルメル修道会司祭) 

キリスト者迫害の事例は古今東西数あれど、その多くの要因は、キリスト者が証す神が、時の為政者の権威や存在を脅かすものであるとの判断に依拠している。日本では、1859年の限定開港、いわゆる開国以降、国力を増すために西洋文化を吸収していずれは肩を並べたい日本と人権尊重(信教の自由)を押し立て、その延長線上にキリスト教宣教の自由を求めるという西欧諸国とのせめぎ合いが続く。徳川政府から明治新政府の移行期間、約3世紀にわたって治安を維持してきたキリシタン禁教は、岩倉使節団が各地で抗議を受けてキリシタン禁教高札を撤去せざるを得ない事態となり、禁教による迫害は止んだ。

1868年に起こった浦上四番崩れにより、長崎代官所によって拘束され、全国各地に流されたキリシタンたちは、拘束の際、信心具(十字架、メダイ、ロザリオ等)を没収された。これら没収品は、その後、持ち主に返されるのではなく、その多くは、内務省を経て東京国立博物館に収蔵・保管された。

今日、それら収蔵品を確認してみると、「19世紀フランス製、聖母の守裂(まもりぎれ)」なるものを数点見出すことができる。このうちのある守裂は、表面に「Esperance du Carmel」、裏面に「Coeurs Tres Saints」と記されている。これはカルメル山の聖母の肩衣(スカプラリオ)である。カルメル会は、迫害後約70年後に女子が、その20年後に男子が来日を果たす。女子は邦人最初の司教である早坂久之助師の働きかけが、男子は中国で起こった共産革命に追われたイタリア人宣教師たちであった。彼らが日本で具体的な宣教活動に携わるはるか昔、(スカプラリオという)カルメル的信心業は、カルメル会士ではないフランス人宣教師たちによってもたらされていた。

歴史は物証を土台としている。歴史に「たら」「れば」は禁句であるが、先人たちが命懸けの苦労を強いられ、没収された所持品が、今日では有力な史料となっているわけで、迫害・没収によって、個人の所有で霧散してしまうリスクをもった物証として保持されている。迫害というキリシタンにとっては悪夢でしかない出来事によって、貴重な資料が守られたという皮肉な結果が、私たちの目の前に公開されている。

 


キリシタン迫害がもたらした功罪” への1件のフィードバック

  1. 犠牲あっての物証を展示するまでは、それを扱った方々はどんな感情だったのでしょう。収蔵品はやはり価値のない物として扱われたのではなく、きっと疑問を抱えながらも捨ててはいけないものであったのでしょうし、埋められたり焼かれたりしないところに潜在する神への畏敬の念があったのではないかと思いたいですが、そんな甘いものではないのでしょうね。

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