“巡礼”が照らす8つの視点


AMOR編集部

別稿で紹介した文献や、著者たちの論考や概説から「巡礼」という事柄に対するさまざまな知見が得られます。「なるほど」と思わされるポイントを8つにまとめてレポートします。

 

(1)聖なる地を訪れて祈ること

教会生活の中で、ふつうに「巡礼」と言う場合、イエス・キリストの生涯にちなむ聖地(エルサレム、ベツレヘム、ナザレ等)への訪問旅行、ローマやサンティアゴ・デ・コンポステラ、ルルドなど教会史上、由緒のある場所を訪問して礼拝する行為のことを指しているようです。

外見は観光旅行であっても、その最終目的が礼拝であり、祈ることであるというとき、それは巡礼旅行になります。特別に長い道中をあえて徒歩で行く修行の趣の参拝もあります。聖なる地がなにゆえに聖地とされるのか、その由来、礼拝の最終目的となる対象もさまざまです(世界の主な巡礼地一覧は別稿)。

それらさまざまな現象の共通性格には、「巡礼とは日常生活を一時離れ、聖地に向かい、そこで聖なるものと近接し、ふたたびもとの日常生活にもどる、という宗教行動である」(星野英紀『巡礼:聖と俗の現象学』3頁)と言われることがひとまず当てはまります。

 

(2)「巡礼」という語は昔から日本に

教会の中にいると「巡礼」とはキリスト教の専売特許と思いがちですが、イスラム教にも仏教にもヒンズー教にもその他のローカルな宗教にもあり、もちろん日本にも巡礼はあります。日本語で「巡礼」という言葉に関して言えば、むしろとても古く、それが文献的にも見られるのは奈良時代から平安時代初頭とのこと。天台宗の高僧円仁(794~864)が唐に行って諸寺を訪問した記録が『入唐求法巡礼行記』と題されています。

巡礼というと複数の聖所を「巡る」というイメージで、西国三十三カ所巡礼や四国八十八カ所遍路などが思い浮かびますが、一つの聖地に遠くから参詣すること(伊勢神宮参詣)なども、宗教学上では巡礼と考えられます(星野英紀、前掲書3頁)。それらを含めると、日本の宗教の大きな特徴をなすのが巡礼と言えます。真野俊和編『講座 日本の巡礼』全3巻(雄山閣 1996年)という日本宗教の巡礼に関する宗教学の専門書もあるぐらいです。

 

(3)「仮住まい」意味するペレグリナツィオ

それだけ古くからある「巡礼」という語が訳語として使われているローマ・カトリック教会の単語は、ペレグリナツィオ(peregrinatio)で、巡礼者と訳されるのは、ペレグリヌス(peregrinus)です。これらには「巡って行く」という意味は元々なく、「外国で、外国へ、外国から」等を意味するペレグレ(peregre)やペレグリ(peregri)から展開された単語です。外国旅行や外国滞在を意味するのがペレグリナツィオ(peregrinatio)、ある土地に一時的に寄留する外国人を指すのがペレグリヌス(peregrinus)だと言います(森安達也「ビザンツの巡礼」聖心女子大学キリスト教文化研究所編『巡礼と文明』所収、198頁)。

この元来の意味がとても意味深く使われている新約聖書の箇所が二つあります。一つはヘブライ書11章13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。

もう一つは一ペトロ書2章11節「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。

これらの箇所の下線を引いた単語がラテン語ではペレグリヌスです(木間瀬精三「西欧世界の巡礼」『巡礼と文明』所収、135-136頁)。キリスト者=神の民のこの世でのあり方が「よそ者」「旅人」とも言われ、同義で「仮住まいの者(身)」と言われているところです。

 

(4)「巡礼の旅」を意味するようになったペレグリナツィオ

ラテン語で寄留外国人、仮住まいの者を意味するペレグリナツィオが聖なる地へのいわゆる巡礼という意味で使われるようになるのが6世紀頃らしいのですが、その後も、聖地(エルサレム)巡礼者にはパルマリウス(しゅろを持ち帰った人)、ローマ巡礼者には文字通りロマリウスという単語が使われたそうです。その中で、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼者はペレグリナリウスと言う慣習があって、やがて、この単語がもっぱら巡礼者を指すことになって現代に至ります(森安達也、上掲書、199頁)。

また、西欧の用語では、聖地に向かう旅程を重視する感覚があることが特徴とされています。これに対してビザンティン教会のギリシア語には、巡礼の旅を意味する語はなく、プロスキュネーシスという礼拝、敬拝を意味する単語がそのまま西欧で言う巡礼を指していたとのことで、現代ギリシア語でもプロスキュネーナが巡礼や巡礼地を意味するのだそうです(森安達也、上掲書、200頁)。

 

(5)カトリック教会では信心業として位置づけられる巡礼

西欧中世に、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼を典型として盛んになった巡礼は、はたしてカトリック信者の信仰生活、教会生活の中でどのように位置づけられるのでしょうか。現代の教理教育指導書『カトリック教会のカテキズム』(1992年、邦訳2002年)では、巡礼は民間信仰の一つの形態、信心業と言われます。

「キリスト者の宗教感情は教会の秘跡生活を中心にしながら、多様な信心業となって表れました。たとえば、聖遺物の崇敬、聖所訪問、巡礼、行列、十字架の道行、宗教舞踊、ロザリオ、メダイなどです」(1674項)。ここで言われる聖遺物の崇敬、聖所訪問も巡礼に関係しますので、最初の三つの事例が広い意味で巡礼に関係します。秘跡生活という語はつまりは日曜日のミサを中心とする日々の教会生活のことです。

こうした信心業に対する教会の姿勢は次に示されます。「キリスト者の生活は、典礼のほかにも、さまざまな文化に根ざした多様な民間の信心業によって養われています。教会は信心業を信仰の光に照らして促進するように留意しながら、福音的な知恵と人間の知恵を表し、キリスト教生活をより豊かにする、種々の民間信仰を大切に見守っています」(1679項)。この「さまざまな文化に根ざした多様な民間の信心業」というところに、暗に、巡礼はキリスト教以前、以外のところからも由来するという認識が窺われます。諸文化・諸宗教の行動慣習を教会が受け入れ、位置づけ、方向づけている、という経緯とその自覚があることが推察されます。

 

(6)聖年の巡礼

カトリック教会には「聖年」という慣行があり、その一つの重要な実践として巡礼が勧められます。聖年とは特別な「神の恵みの年」のことを言い、その恵みについては「全免償」といういかめしい言葉ですが、これは罪の償いがすべて免除されるという意味の日本語訳です。原語は「ゆるし」を意味します。罪を犯したことからこうむる結果(罪責、責め苦など)のすべてからその人を解放する、神の恵みを言い表すものです。

そのゆるしの目に見えるしるしの一つとして教会によって定められた聖所への巡礼(当地でのミサ参加・信心業参加)が勧められます。具体的には、ローマの四大教皇聖堂、聖地(エルサレム、ベツレヘム、ナザレ)の三大聖堂、そして各教区で指定された司教座聖堂をはじめとする幾つかの巡礼教会への巡礼がその目的地となります(教皇フランシスコ『希望は欺かない――二〇二五年の通常聖年公布の大勅書』48~51頁参照)。2025年は25年ごとの通常聖年にあたるために、今年、にわかにカトリック教会内で巡礼が大きな関心事となっているわけです。

 

(7)ペレグリナツィオとパロキア(小教区という語の基にある感覚)

(2)ではラテン語をもとに単語を調べて、巡礼者のもとになる単語ペレグリヌスが「仮住まいの者・寄留外国人」を指すことがわかりましたが、新約聖書の原語はギリシア語ですので、そこに遡ってみると、仮住まいの者(身)を指す単語はパレエピデーモスです。他方、上で引用した一ペトロ書2章11節の「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」の箇所で、「旅人」と訳されているギリシア語はパロイコスです。

パロイコスもラテン語のペレグリヌスと同様、寄留外国人、仮住まいの者を指します。そして、それに関係する名詞パロイキアは「外国人として住むこと、寄留すること」を意味します。実は、この単語がラテン語パロキア(parochia)となり、これが今、教会用語として「小教区」とか「聖堂区」と訳されるものです。ここには、キリスト者とその共同体の地上におけるあり方に対する根本的な感覚・自覚が含まれています。それは、「わたしたちの本国は天にあります」というフィリピ書3章20節が表す意識のことです。

これらの使徒書の箇所と同じ感覚の表現が、今のカトリック教会のミサの祈り、第三奉献文にも出てきます。「地上を旅するあなたの教会」と訳されるところです。地上を旅する神の民というイメージを打ち出した、現代教会の意識が盛り込まれている典型的な表現です。ここで「旅する」と訳されているのがペレグリナツィオに連なるペレグリーノルという動詞です。日本語の「旅する」が曖昧に思われるとき、「地上を巡礼する教会・神の民」と考えてみるのが一つの方法です。そのほうが究極の巡礼地「天」を目指すという共同体であるという意味合いがはっきりしてきます。小教区所属といった、どこか静止的な組織イメージとは別の、ダイナミックなキリスト者意識が喚起されそうです。

このように、キリスト者のあり方、生き方、歩み方の根本には「旅」があり、「巡礼」があることにその時々に気づかせてくれるのが、特定の場所に向かう個々の聖地巡礼であり、聖年という特別な年の巡礼であるといえるのではないでしょうか。

 

(8)巡礼と観光の融合への注目から

よく教会に置いてあるヨーロッパ旅行の宣伝パンフレットでも巡礼ということが大きな特徴づけとなっています。形態は、どこの旅行社でも企画される観光旅行、ツアーですが、それが教会の場では、巡礼という理念、意義をもって総合されます。見た目はまったくの観光旅行でも、それに参加する人において信仰心が根本にあり、各地での最終目的も祈りや礼拝に置かれるとき、それは立派な巡礼旅行ということになるのでしょう。

現代では、そうした宗教的行為と見物の興味からする観光との間の垣根が取り払われていると指摘されます。すると、伝統的な聖地巡礼のほかに、「世界遺産を巡る旅、寺社・教会の慣行、自分探しや癒しのためのパワースポット巡り、興味本位のオカルトスポット探訪、有名人の墓やアニメの舞台の訪問」(岡本亮輔『聖地巡礼――世界遺産からアニメの舞台まで』まえがきより)が現代的な巡礼として姿を現しています。宗教的な巡礼と世俗的・愉楽的な観光をはっきり分けることができない状況が浮かび上がっているのです。それらは、宗教が一つの文明・国家・社会を規定していた時代に対して、現代は信仰が私事化していることを示す現象だと考えられて、注目されています。

このように、巡礼やそれに似た「旅」の現象は現代における宗教性のあり方を考えさせる格好の事例が詰まっているようです(星野英紀・山中弘・岡本亮輔編『聖地巡礼ツーリズム』参照)。それは、巡礼や旅のほか、外国訪問、留学、海外移住、難民としての寄留など、地球社会の今、起こる、さらに幅広い現象にも目を向けさせてくれます。イエスの生涯も使徒たちの宣教旅行も、その後の時代の宣教師のミッションも、当然そのような移動、旅現象の一幕でした。巡礼を考えることは、どの宗教にもある宣教や伝播の様子を見つめ直すことにもつながります。

“巡礼”に対する限りなく広がりゆく考察は、キリスト者自身にも、より行動的な信仰、信仰の行動化というテーマを気づかせてくれるようです。また、すべての人にとって、究極の目的地や対象は異なっていても、それを目指していくプロセス(自己自身からの離脱と新しい自己回帰という経験)の共通性格の上で、諸宗教や現代的な聖地巡礼体験が互いに出会えるようになっていくのではないか、と期待されます。

(調査・まとめ:石井祥裕)

 


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