平和だからこそ、過去を学びたい


中村恵里香(ライター)

ロシアによるウクライナ侵攻があり、改めて平和とはどういうことなのだろうと考えてみました。日本は第二次世界大戦後78年間どこかと戦争をしたこともなく、内戦もない状態です。日本は平和な国だと言われます。確かに戦争をしてもいませんし、内戦もありません。でも、本当に平和なのでしょうか。日本という国は、第二次世界大戦の反省を本当にしているのか、反省をし、ふたたび戦渦に巻き込まれることがない状態を維持してこそ平和と言えるのではないでしょうか。

今年も8月6日に広島で、9日には台風の影響もあって規模は縮小されましたが、長崎で原爆追悼式を迎えました。多くの人たちの犠牲の上に成り立っているのが今の日本です。

広島の原爆被害について描いた映画2作をご紹介することで、平和について考えてみたいと思います。その2作とは、第二次世界大戦が終結して7年目の1952年に公開された新藤兼人監督の『原爆の子』とその翌年につくられた『ひろしま』です。この2作品は、長田新が編纂した『原爆の子――広島の少年少女のうったえ』(岩波書店)を原作として作られています。

 

まずは新藤兼人監督作品『原爆の子』をご紹介します。

1945年8月6日、広島に原爆が投下され、当時広島に住んでいた幼稚園教諭・石川孝子(乙羽信子)は家族の中でたった一人生き残りました。戦後、瀬戸内海の小島で小学校の教師をしていますが、原爆被災の頃に教えていた園児達の消息を確認したいと思い、夏休みを利用して、久しぶりに故郷広島を訪れます。

広島の友人宅を訪ねるため、太田川に架かる橋の上で孝子は元奉公人の岩吉(滝沢修)と再会します。彼は顔にケロイドがあり、視力を失っていました。岩吉の家で一夜をともにし、戦後の様子を聞くと、息子は南方で戦死し、嫁は原爆で死んだといいます。残された孫の太郎は、岩吉の生活状況から孤児院に預けられています。原爆が落ちるまで長く勤めてくれた岩吉に孫と暮らせるように島に来ないかと進めますが、岩吉からは断られてしまいます。

孝子は園児達の今を知るべく、彼らを訪ね歩きます。原爆症で父親を亡くしたばかりの子、教会にひきとられ白血病に苦しむ子など、決して恵まれた状況にない子たちにばかりです。孝子は教え子たちとどう向き合うのか、そして岩吉を孫とともに島へ誘うことができるのか。ぜひご覧ください。戦争の傷跡が残すものはどんなものなのかがここには鮮明に描かれています。

 

次に『ひろしま』ですが、この作品は日教組プロが全国の組合員から一人50円のカンパを集め、制作費2400万円(現在の価格で言うと1億円以上)で制作した作品です。

広島市内のとある高校のクラスで女子生徒みち子(町田いさ子)が白血病によって倒れます。戦後広島にやってきた担任の北川(岡田英次)は、生徒たちと原爆症について話し合います。

1945年8月6日、市内で建物疎開に従事していた当時の小学生たちは女性教師・米原(月丘夢路)とともに被爆します。焦土と化した市内を彷徨い、太田川で力尽きるまでの様子が描き出されます。

北川は広島で教師となったにもかかわらず、これまで原爆のことを知ろうとしなかったことを謝罪しますが、生徒からは原爆のことを世界の人に知ってほしいとの声があがります。

この映画の中で、もっとも目を引くのは、原爆投下の瞬間とその後の人々の様子です。当時、映画に必要な服や防毒マスク、鉄カブトなどは、広島県内の各市町村の住民から寄せられた4000点が使われたといいます。また、被爆した広島市内の人々や教職員など、8万8500人のエキストラによって被爆直後の様子を再現して作られた映画です。その生々しさは目を覆いたくなるほどですが、実際にはもっとすさまじいものであったろうことを想起させます。この作品は当時、アメリカの統治下にあったことから公開はほとんどされなかったと言われています。なぜ、『原爆の子』は、公開され、『ひろしま』は公開されなかったのかはぜひこの2作をご覧ください。

 

私がなぜ、これらの作品を選び、今皆さんに紹介したいと思ったのか少しお話しさせていただきたいと思います。

私の両親は、被爆者ですので、当然、私は被爆2世です。父は当時中学3年生で爆心地から1.5キロのところで建物疎開に従事していたといいます。これまで何度も出てきた建物疎開ですが、ご存じのない方もいると思うので、簡単に説明しますと、空襲によって火災の延焼を防ぐために、実際に住んでいる人の家を行政の側で選び出し、引き倒してしまう作業です。今から考えると何の意味もないことのように思えますが、当時の軍人や行政の側は必要と判断し、小学生の高学年から中学生、隣組の女性たちに従事させていたといいます。

私の父はその後高校教師から大学教師となり、50年以上教員生活をしながら文芸評論家として生きてきました。その中で、私に対してさまざまなことを教えてくれましたが、面と向かって原爆体験や戦争体験を語ってくれたことはありませんでした。戦争体験に対して、私が父に聞くこともあまりなかったせいかもしれません。父の残した文章の中に、原爆や戦争に関して書いたものがあります。マルジュ社から出した『閃光の記憶から 生と死のあいだ』(1991年)という本です。その中の一部を引用させていただきます。

大量虐殺(ジェノサイド)を見た体験は確かにあるが、それは私に被害者意識を与えてはいない。戦時下の少年だった私は、軍事教練を通じて、いつしか〈皆殺しの思想〉を受け付けられていた。未熟な戦時要員の一人として、当時〈鬼畜米英〉への〈皆殺しの希望〉を養成錬磨しなければならなかったからだ。(中略)うちに秘めていた〈大量虐殺願望〉が、不意に眼前に、昭和二十年八月六日の八時十五分に実現してしまったわけである。

(中略)

私は突如地獄を見てしまったわけである。そして〈見てしまった地獄〉の様相に深く傷ついてしまったわけである。

父の中で、戦争がどう作用し、自分の少年期をどう振り返っていたのか、この文章は、私に突きつけてくるものがありました。

そして原爆について書き残したいという気持ちが父にはあったようです。それは「告発の意図からではなく、それが多くの人の人生にどう作用したかという本当の意義を見つめて、生きている間にそうしても書いておかなければならないという義務を私は自分に課している。」と書かれていますが、70歳でこの世を去るまですべてを読んだわけではありませんが、書き残した様子はありませんでした。

父は、私に憎む心を持つことは良くないと常日頃からいっていました。アメリカを憎むのではなく、日本人としての誇りと文化の伝承の中に平和を育む心が重要なのではないかと思います。戦時下に生きてきた人たちが鬼籍に入り、語り継ぐことが困難になりつつあります。戦争の悲惨さを語り継ぐことは重要ですが、私にはもう一つ日本人の意識の問題があると思っています。『ひろしま』の中で、ある男子生徒が「ピカをあびたというと、原爆を鼻にかけているとみんなは見るんだ」という台詞があります。それは今も変わらない意識ではないでしょうか。被爆2世だと話すと、みな顔を背けます。「それはもういいよ」という人もいます。戦争はもうないんだからとも。本当にそうでしょうか。

日本では戦争がありませんが、今もウクライナだけではなく、どこかで内戦も含めて戦争が行われています。戦争は、傷つけることはあっても、救うことはありません。平和な日本だからこそ、過去を振り返り、戦争の時代に実相を学ぶことで、あらためて平和について考えていただきたいと思っています。

 

『原爆の子』
監督・脚本:新藤兼人/製作:吉村公三郎/協力製作:山田典吾、絲屋寿雄、能登節雄/撮影:伊藤武夫
出演:乙羽信子、滝沢修、清水将夫、宇野重吉、山内明

 

『ひろしま』
監督:関川秀雄/脚本:関川秀雄、小林太平/録音:安恵重遠/撮影・編集:小松浩、河野秋和/美術:平川透徹
出演:岡田英次、町田いさ子、山田五十鈴、加藤嘉、河原崎しづ江、月丘夢路


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