キリスト教の主要巡礼地


AMOR編集部

別稿のいわば巡礼入門的文献において、繰り返し例示される、世界の諸宗教の聖地・巡礼地のなかから、ここでは、キリスト教世界でのごくごく主要な巡礼地を一覧しておきたいと思います。

それらの文献のほか『新カトリック大事典』(研究社 1996~2010、電子版)なども参考にまとめています。キリスト教の巡礼の機縁になっているものがどんなものかを簡潔に一覧したものですので、今後の調査・検索の入り口になればと思います。

 

首都的聖地

エルサレム、ベツレヘム、ナザレ等の聖地

コンスタンティヌス大帝はキリスト教を公認し、ベツレヘムに降誕教会とオリーブ山にエレオナ教会、エルサレムに聖墳墓聖堂、ナザレなどにも聖堂を建造し、これらキリストの生涯にちなむ巡礼が盛んになったのが始まり。イスラム支配のもとに置かれたのち、中世に聖地奪還を目指しての十字軍が起こったことは知られています。その後の歴史の変転により盛衰はありますが、現代の旅行事情をもとに、聖地巡礼は教会が関係するツーリズムの一つの大きな柱です。

これらの聖地についてはエゲリアという名の西方の修道女が381~384年頃に、パレスチナやエジプトに旅行をして書いたと言われる『聖地巡礼記』 (Peregrinatio ad loca sancta) が知られています。スペイン北西部のガリシア地方出身の修道女という説が有力のようですが、確証もないとのこと。全49章のうち前半 (1-23 章) はシナイ山、ネボ山、メソポタミアなどへの旅行記で、主に旧約聖書に記されている場所の訪問記。後半がエルサレムと周辺域での教会と典礼の記録で、現在のカトリック教会の聖週間の典礼の資料となっています。邦訳:『エゲリア巡礼記』太田強正訳注(サンパウロ 2002年)

 

ローマ

聖ペトロ、聖パウロの殉教地として3世紀には巡礼が始まりました。4世紀初め、312年にコンスタンティヌスは戦勝を祝って、かつての兵舎を改造して、ローマ市内最古のラテラノ聖堂を建設。ここがローマ司教座聖堂となりました(10世紀から「サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂」と称される)。

続いて同大帝により聖ペトロの墓に聖ペトロ大聖堂(サン・ピエトロ大聖堂)が建てられ、これは4世紀半ばに完成。また同大帝により聖パウロの墓と伝わる場所に建てられた聖堂が4世紀末から拡大され、5世紀前半に大聖堂となったのが「城壁外の聖パウロ大聖堂」(サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ聖堂)、また同じく4世紀半ばに発端はあるものの現在の聖堂として5世紀にマリアに献堂された聖大マリア大聖堂(サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)、これらがローマ四大大聖堂として、今日も聖年巡礼が勧められるところです。

中世12世紀にはローマ巡礼案内書として『大都ローマの驚異』(Mirabilia urbis Romae)があります。

 

コンスタンティノポリス

コンスタンティヌス大帝によって330年キリスト教ローマ帝国の新首都とされた町。1453年以後はイスラム都市イスタンブール。同市大司教は381年の第1コンスタンティノポリス公会議(第2回公会議)によって「ローマ教皇に次ぐ」地位を有する東方教会首位の総主教とされ、この都は「新しいローマ」と考えられるようになります。

6世紀のユスティニアヌス1世の発意で、石造円蓋の美麗壮大な聖堂としてハギア・ソフィア大聖堂が再建されます。11世紀半ばに始まるコムネノス朝の時代には、イエスやマリア、洗礼者ヨハネに関するさまざまな聖遺物の宝庫となります(森安達也「ビザンツの巡礼」『巡礼と文明』209-216頁参照)。その後のイスラム支配を経つつもその歴史的意義は尽きなく、キリスト教とイスラム教の対峙と関係のあかしともなっています。

 

使徒・宣教者・殉教者や修道院創建にちなむ巡礼地

トゥール(フランス)

ローマ時代のトゥールの司教、フランスの守護聖人で「ガリアの使徒」と呼ばれる聖マルティヌス(316/17-397)の墓地聖堂が472年に建立されてから巡礼地に発展、フランク王国の庇護を受けます。

 

クロー・パトリック(アイルランド)

「アイルランドの使徒」と呼ばれる聖パトリキウス(389頃-461頃)にちなむ巡礼地。アイルランドメイヨー県にある山で、彼が四旬節の40日間に断食を行ったと伝わる場所。

 

フルダ(ドイツ)

中部ヘッセン州、フルダ河畔の都市。フランク王国と周辺のゲルマン地域の宣教者で、「ドイツ人の使徒」と呼ばれる大司教、聖ボニファティウス(672/75頃-754)の墓があるところとして巡礼地になっています。彼の弟子によって8世紀半ば、この地にベネディクト会修道院が建設され、ゲルマン人への宣教の拠点となり、9世紀前半にはヨーロッパ北部の宗教・文化・学問の中心地となったという町です。

 

モン・サン・ミシェル

モン・サン・ミシェル(フランス)

ノルマンディー地方マンシュ県の湾上に浮かぶ小島にそびえるベネディクト会大修道院では、8世紀初め、アヴランシュ司教オーベールの夢に現れた大天使ミカエルの命に従って聖堂が建てられ、10世紀後半にはロマネスク建築様式による大修道院聖堂になります。以後、巡礼者を多く集めます。フランス革命により没収され、牢獄として使用されたあと、 19 世紀後半に巡礼が再開されて再び盛んになっています。

 

サンティアゴ・デ・コンポステラ(スペイン)

7-9世紀の伝承によれば、使徒聖大ヤコブはスペインで宣教活動をして殉教、彼の遺骸はスペイン北西ガリシア地方のアルカ・マルマリカ、今日のサンティアゴ・デ・コンポステラに埋葬されたとされます。その崇敬が高まり、10世紀以降ぞくぞくと聖堂や付属施設が建設・増改築されて大巡礼地となっていきます。巡礼の隆盛期は12世紀で、その頃まとめられた『巡礼の案内』という書が『聖ヤコブの書』に収められており、フランスからの四つの巡礼路が記されていて現代にまで続く巡礼路が形成されていたことがわかります。

この地への巡礼については日本でも関心が高く、多くの文献があります。入門的には、渡邊昌美著『巡礼の道 西南ヨーロッパの歴史景観』(中公新書 1980年)がお薦めです。2010年以降では『サンティアゴ巡礼へ行こう!――歩いて楽しむスペイン』 中谷光月子著(増補改訂版 彩流社 2012年);『サンティアゴ巡礼の歴史――伝説と奇蹟』ホセ・ラモン・マリニョ・フェロ著、川成洋監訳、下山静香訳(原書房 2012年);『サンティアゴ・デ・コンポステーラと巡礼の道』グザヴィエ・バラル・イ・アルテ著、杉崎泰一郎監修、遠藤ゆかり訳(創元社 2013年);『聖ヤコブ崇敬とサンティアゴ巡礼――中世スペインから植民地期メキシコへの歴史的つながりを求めて』 田辺加恵・大原志麻・井上幸孝著(春風社 2022年)などがあります。また20世紀末からの現代のサンティアゴ巡礼の様子に世俗化時代の新しい意識の行動様式を見る考察もあります(『聖地巡礼ツーリズム』20-25頁、岡本亮輔『聖地巡礼』61-90頁)。

このAMORでも2016年12月から2018年2月まで全46回にわたり連載された古屋章氏、古屋雅子氏による「スペイン巡礼の道――エル・カミーノを歩く」がありますので、ぜひご覧ください(サイトマップ参照)。

 

カンタベリ(イギリス)

当地の司教トマス・ベケット(1117/18-1170)は国王との対立で殺害され殉教しました。聖人とされ、彼の霊廟がイングランド最大の巡礼所となっています。有名な14世紀の文学作品、チョーサー作の『カンタベリー物語』はこの地への巡礼者がそれぞれに語る物語という設定になっているものです。

 

聖母にちなむ中世発祥の巡礼地

シャルトル(フランス)

元来、この地は古代ケルト人の聖地として地下に「聖なる泉」があり、そのそばに「生み出すおとめ」と呼ばれる黒い母神像が祀られたところがありました。4世紀頃、この母神像が聖母マリアとして崇敬されるようになり、シャルトルはその聖地となります。とりわけフランク王=西ローマ皇帝カール2世が司教座聖堂に「聖母の衣」を寄進した876年以降、フランスでのマリア崇敬の中心地となっています。13世紀前半に現在の大聖堂が完成しています。

 

アインジーデルン(スイス)

10世紀に創建されたベネディクト会大修道院の町。その聖堂には「黒い聖母」の絵があり、巡礼地となっていきます(最古の記録は1314年)。1984年に聖堂内陣の修復工事が完了、新しい祭壇が教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖別されています。

 

ロレト(イタリア)

マルケ地方の町。伝承では、エルサレムの聖地が陥落した1291年5月9日夜から10日にかけて、ナザレにあるサンタ・カーサ(聖母マリアの家)が天使たちによってまずアドリア海沿岸の町テルサットに運ばれ、その後数か所を経て、1294年12月10日にロレトに到着したとされます。このことを称賛してサンタ・カーサを内に含む聖堂が15世紀半ばに起工され、18世紀に完成。巡礼地として発展していきます。

 

チェンストホヴァ(ポーランド)

ポーランド中南部の都市。14世紀末に創建されたヤスナ・グラ(「光の丘」の意)修道院の聖堂にある木彫りの聖母子像のイコン(「黒いマドンナ」)で知られ、中欧最大の巡礼地となっています。17世紀半ばのスウェーデン軍の包囲に耐えたあと、国王ヤン2世によってチェンストホヴァの聖母はポーランドの女王として称揚されます。20世紀の苦難の中でも、ポーランド国民の愛国心と宗教的自由の象徴となってきました。現代型巡礼行動ともいわれるワールド・ユース・デーが1990年に開催されています。

 

グアダルーペ(スペイン)

エストレマドゥーラ州カセレス県の町。同地で14世紀初め、羊飼いによって聖母像が発見されますが、伝承によれば、教皇グレゴリウス1世がセビリャのレアンデルに贈与したもので、8世紀初めのアラブ人侵攻の際に隠されたものとのこと。14世紀に王が聖母像のまつられる礼拝堂に立ち寄り、加護を祈ると戦に勝利したことから、この聖母のための修道院を創建。15世紀以降、聖母崇敬の中心地となっていきます。

 

近世・近代発祥の主な巡礼地

グアダルーペ(メキシコ)

1531年12月9日、メキシコ・シティ近郊の山上でフアン・ディエゴ・クアウトラトアツィンという地元民に聖母が出現し、聖堂建立を望むと意志を示します。この出現があったといわれる場所は先住民アステカ族のトナンツィン(「我らの母」の意味)をまつった場所だったとも言われます。出現の確証となった聖母図がその後、崇敬の対象となり、この聖母と聖母図のためにテペヤクの丘に1533年小礼拝堂が建てられ、1709年に大聖堂が建設されます。この聖母崇敬はメキシコ人の民族的アイデンティティと深く結びついていきます。

 

ラ・サレット(フランス)

南東部グルノーブル司教区の農村で、1846年9月19日、近郊山中で牛の番をしていた少女メラニー・マシュー・カルヴァ(1831-1904)と少年マクシマン・ジロー(1835-75)に、光の輪の中で冠とバラで身を飾り、岩に腰かけて泣く美しい女性が現れ、人々が主日・教会の掟・祈りの軽視などに対して悔い改めを求めて警告するメッセージを残したと言われます。数日後、この地に湧き始めた泉の水による病の治癒も起こります。5年後、当地の司教により聖母の出現だったと公式に宣言され、以後、この聖母の崇敬と巡礼が歴代教皇の奨励もあり、盛んになります。

 

ルルド(フランス)

ルルド

南西部オート・ピレネー県の小都市。1858年2月11日に貧しい粉屋の娘ベルナデット・スビルー(14歳)は妹たちと薪を拾いに出かけたときにマッサビエルの洞窟で「白いベールを被り、白い衣服に青の帯を締めた」女性を目撃。以後7月16日までの間に総計18回姿を現します。あるとき洞窟の奥の岩肌に触れたベルナデットの手の下から清水が湧き出したとされ、これが不治の病を癒す奇跡の泉として知られるようになります。

出現の真正性が当地の司教に認められ、1864年、洞窟での聖母像除幕式を祝って最初の公式巡礼が始まり、以後、巡礼熱が燃え上がります。1876年「無原罪の御宿り教会堂」(上部バシリカ)献堂。1901年「ロザリオのバシリカ」献堂。1958年「ピウス10世地下バシリカ」献堂。また1874年に設立された「苦しみの聖母病院」をはじめとする看護施設もあります。

ルルド巡礼については日本でも『ルルドへの旅・祈り』アレクシー・カレル著、中村弓子訳(春秋社 1983年);『ホーリィ・ルルド』 菅井日人写真(中央出版社 1989年);『奇蹟の聖地ルルド』田中澄江文、菅井日人写真(講談社 1984年)など、多くの書籍があります。近年の研究を含む『ルルド傷病者巡礼の世界』寺戸淳子著(知泉書館 2006年); 『聖地巡礼ツーリズム』(弘文堂 2012、26-31頁);『信仰と医学――聖地ルルドをめぐる省察』帚木蓬生著(角川選書 2018年)なども興味深いです。

 

パレー・ル・モニアル(フランス)

中東部ソーヌ・エ・ロアール県シャロン郡の修道院町。10世紀末からクリュニー系のベネディクト会修道院がありました。17世紀にはマリア訪問会の修道院が建てられ、同会修道女マルグリット・マリー・アラコック(1647-1690)が1673、1674、1675年と3度にわたってイエスの出現を体験し、とりわけ1675年には、聖体の祝日の8日間における出現でイエスの聖心の祝日を設けるよう委託を受けたといいます。その後、イエスの聖心の崇敬の普及と隆盛に伴い、19世紀以降、同修道院聖堂は聖心崇敬の巡礼地となっていきます。

 

リジュー(フランス)

ノルマンディー地方カルヴァドス県の町。24歳で帰天したカルメル会修道女、幼いイエスの聖テレジア(リジューのテレーズ 1873~1997)の生涯が記念される巡礼地です。19世紀末自叙伝が発行され、20世紀に入ると急速に崇敬が高まります。1925年に列聖され、1927年にはすべての宣教師の保護の聖人、そして1997年には教会博士とされます。1937年に献堂されたリジューの聖テレーズ大聖堂は、住んだ家やカルメル会修道院を巡る巡礼者たちの目的の場所となっています。今や、ルルドに次ぐフランス第二の大巡礼地ともいわれるほどです。

 

ファティマ(ポルトガル)

リスボンの北、約150kmにある町。当地にコヴァ・ダ・イリアという丘に囲まれた窪地があり、そこで1917年5月13日から10月13日にかけて3人の羊飼いの子どもたち、ルチア・ドス・サントス(1907-2005)、その従兄弟フランシスコ(1908-19)とジャシンタ(1910-20)に6度マリアが出現し、目撃されたことが機縁となります。1922年から7年間に及ぶ調査がなされた後、1930年、当地の司教にファティマのマリアへの崇敬を認められ、巡礼が盛んになっていきます。

 

日本のカトリック教会関連巡礼地

16世紀半ば、ザビエル渡来により始まるキリスト教の宣教、教会創設、その後の弾圧、迫害、殉教をめぐる地域は歴史を経つつ、今日、あらためて記念され、信仰者たちの巡礼と崇敬、礼拝と祈りの旅の場所となっています。歴史的記念の地は複数の場所を含む巡礼路として形成され、巡礼と観光とが結びついた展開をしつつあります。長崎・西坂の日本26聖人殉教の地、再宣教、キリシタン復活の場、大浦天主堂をはじめ、キリシタン宣教時代、潜伏期、幕末明治の再宣教や迫害の歴史を刻むさまざまな教会があります。

近年、これらの地には歴史記念と巡礼の新たな展開が見られます。2008年、ペトロ岐部と187殉教者の列福によって、徳川時代初期の多くの信徒を含む殉教の記念地は全国に広がっています。これらの歴史記念地訪問は、信者の側からは巡礼旅行として意識化されるようになります。長崎大司教区では2007年に「長崎巡礼センター」が設立され、2008年にはNPO法人化され、巡礼としての見学旅行のサポートが進められています。

その一方、自治体主導で長崎教会関係施設の世界遺産登録化が目指され、2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」という名称で世界遺産登録がなされました。世界的な注目を集めるようになり、海外からの訪問者も増加するなか、世界遺産観光ツーリズムと信仰的巡礼との関係(「せめぎあい」等)が課題ともされている現状です(『聖地巡礼ツーリズム』84-89頁、岡本亮輔『聖地巡礼』113-118頁参照)

以上、今回は、キリスト教世界の伝統となっている主要な巡礼地の概観にとどめますが、巡礼行動という点では、多くの宗教、イスラム教、ヒンズー教、チベット仏教、中国仏教、日本の仏教、神道などさまざまに現象は広がっています。いつか別な機会にそれら諸宗教の巡礼地に関する情報を一覧してみたいと思います。

(調査・まとめ:石井祥裕)

 


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