天使とは?(AMOR流リサーチ)


そぼ
お久しぶり! 元気だった?
りさ
本当に。いつからかというとなんと2年前、2022年の11月号「死者を祀ること」の特集で、「キリスト教の葬儀に心を向けてみよう」ってタイトルで、調べたり考えたりして以来です。
そぼ
そんな前なの!?

 

天使は主の使い
そぼ
で、今回は、天使。どうしてこのテーマになったのかな?
りさ
12月はクリスマス。福音書を見ても、イエスの誕生を巡っては天使が大活躍していることがあるみたいですね。

たしかにイエスの誕生を記す、マタイ福音書でも主の天使がヨセフに対して夢の中で現れて、マリアが聖霊によって身ごもったこと、生まれる男の子をイエスと名付けることを告げる(マタイ1:20-21)。

ルカ福音書では、天使ガブリエル(ルカ1:19参照)が祭司ザカリアに現れて洗礼者ヨハネの誕生を予告する(同1:11-17)。6か月後にはガブリエルがマリアに現れて今度はイエスの誕生を告げる(同1:26-38)。

そぼ
いわゆる受胎告知だね。天使ガブリエルとマリアの邂逅が印象深く描かれている。実際、この場面を描いた絵から、多くの人は天使のイメージをもらっているんじゃない? 自分もそうだな。
りさ
その天使はイエスが誕生したときに、そのことを羊飼いに告げます。夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに主の天使が近づき「恐れるな」と言って、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである」(ルカ2:10)と。降誕夜半のミサで読まれるところです。

この告知がなされると、突然、この天使に天の大軍が加わり、「いと高きところに栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と栄光の賛歌の冒頭にもなっている賛美が歌われる(同2:13-15)という展開です。

そぼ
確かに降誕を描く絵でも、天使は欠かせないな。そのイメージでいつも考えてしまっているかも。
りさ
イメージって?
そぼ
男とも女ともつかない、中性的な姿で、そしていつも背中に翼がある……みたいな。
りさ
確かに。でもそれは、人間の性別にとらわれない、つまり人間性を超えていること、翼は、人間と違って地上に拘束されない存在、いずれにしても人間を超えた存在、とはいえ、人間に伝わることばでメッセージを伝える存在ということでしょう。
そぼ
それで「天使」か。
りさ
ただ「天使」というのは日本語訳の問題。ギリシア語でアンゲロス。文字通り「使い」「御使い」、そしてしばしば「主の天使」「神のみ使い」という言葉で登場します。文字通り、神の意志やことばを伝える使者ですね。ラテン語だとアンゲルス(アンジェルス)、そして英語ではエンジェルという具合です。
そぼ
「天使」というのは神の使い、神の使者ってことか。確かにマタイ福音書では「神の国」のことを「天の国」と言うし、「天」は「神」の意味で考えていいのかな?
りさ
でも、それは、天使の役目、役割を表すものにすぎない、というのが教会の理解のようですね。『カトリック教会のカテキズム』という教理教育指導書(邦訳2002年)では、「物質的ではない、聖書によって通常天使と呼ばれている霊的存在者がいるということは、信仰の真理です」(328項)とあり、アウグスティヌスのコメントが引用されています。

「『天使』とは、本性ではなく役目を指していることばです。それでは、その本性はなんと呼ぶのですか、とあなたは問うでしょう。その答えは霊です」(329項)と、まず霊的存在、つまりは霊だというのが教えの出発点にあります。

そぼ
うーん、天使は霊的存在、霊なんだね。つまりそこが目に見えないもの、地上を超えた翼で表現される理由なのかな。でも霊的存在なわりには、ずいぶん絵画的に表現されているよね。それでそんなイメージでいつも考えているんだけど……。
りさ
そうですね。それと、気づきませんか? イエスの誕生の場面で、天使が大活躍していると言ったけれど、決して主役ではないことに。

実際、私たちも降誕の出来事については、ヨセフとかマリアとか、なによりも生まれた幼子イエス、さらには、ザカリアや洗礼者ヨハネといった人間たち(イエスも含めて)の存在の印象のほうが強くないでしょうか。

そして、その根本には神自身がいることに。主の天使、あるいは天使ガブリエルも重要な役目(主の使いとしての)を果たしていますが、あまり印象に残らないというか、脇役に徹しているという気がするのです。

そぼ
それが「使い」という存在の特徴なのかもしれないね。

 

「すべての天使と聖人……」
そぼ
天使とは、神の使いとして役割を果たす霊的存在、――うん、そういうふうに理解しよう。

ところで、降誕の場面ではある歴史を物語る叙述の中に登場する存在として、わりと客観的に考えられるんだけど、もっと気になるところがあるんだよねー。

りさ
何ですか?
そぼ
カトリック教会のミサの式文の中で、こんな祈りがある。開祭の回心の祈りなんだけれど、「全能の神と兄弟姉妹の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください」というところ。

それから、奉献文の部で、叙唱から「感謝の賛歌(サンクトゥス)に移り行くところで、いろいろなパターンがあるけど、たとえば、「神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います」といった文言があるんだ。

りさ
ふむふむ。
そぼ
ほかにも「すべての天使と聖人とともに、あなたの栄光をたたえ、わたしたちも終わりなくほめ歌います」というのがあるね。でも、ふつうにミサに参加していて、「すべての天使」ってあまり考えたことがない。

すべての聖人といったら、聖ペトロやアシジの聖フランシスコとかいろいろな聖人がいるから思い浮かぶのだけれど、天使ってそんなにたくさん知らないんだ。どう考えたらいいのかな?

りさ
確かに天使は主の使い、神の使いという役目と、そこで伝えられる神のことばがなにより重要なので、伝える役の天使の存在は本当に仕える存在として、控え目で脇役にとどまっているといえるかもしれません。

天使というのも、決してルネサンス時代の絵画で、定型となっていくような天使像だけではない、というか、もっとつかみどころのない存在も含まれているみたいです。

そぼ
絵画的イメージはいったん脇においといて、ということ?

 

神を賛美するセラフィム、ケルビム
りさ
そうです。実は叙唱に続いて「すべての天使」が言及されて始まる「感謝の賛歌(サンクトゥス)」はどこから来るか知っていますか?
そぼ
ああ、ちょっと前まで「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌われていたあれか。新しい日本語の式文で「聖なる、聖なる、聖なる神」となった歌だね。
りさ
そうです。あれは、イザヤ書の6章に由来します。主なる神を賛美する不思議な存在のことが語られています。

「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う』」(1~3節)。

そぼ
これも天使なの? だとしたらすごく風変りな形をしているね。でも翼というところは重要かな。
りさ
それから、旧約聖書には、しばしばケルビムという存在が登場するのを知っていますか?
そぼ
聞いたような、知らないような……???
りさ
出エジプト記25章の18~22節に「打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。……わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」とあります(37:7-9も参照)。
そぼ
それはケルビムの像ってことだね。何か神社の両脇にいる狛犬みたい。
りさ
掟の箱(契約の箱)という主なる神を象徴するところに、神に仕えるケルビムという、本来は目に見えない存在を神の命令どおりに像に造りなさい、といったところです。
そぼ
これも天使? 神に仕え、神の座を守るという役割か。それは「神の威光をあがめ、権能を敬う」天使の役割を思い起こさせるね。
りさ
そうなんです。出エジプト記では幕屋の話でしたが、ソロモンの神殿建築ではその内陣に置かれたのがケルビム像です。列王記上6章23~35節はその話。

「ソロモンはオリーブ材で二体のケルビムを作り、内陣に据えた。……ソロモンはこのケルビムを神殿の奥に置いた。二体のケルビムはそれぞれ翼を広げ、一方のケルビムの翼が一方の壁に触れ、もう一方のケルビムの翼も、もう一方の壁に触れていた。また、それぞれの内側に向かった翼は接し合っていた」。

そぼ
なんか翼がすごく大きそう!
りさ
そのケルビムは、エゼキエルの預言の中で、この預言者の幻視の中でまた不思議な風体で登場します。エゼキエル書10章1~17節を見てみてください。抜粋しますね。

「主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた。ケルビムの翼の羽ばたく音は外庭にまで聞こえ、全能の神が語られる御声のようであった。……ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった。ケルビムは上った。これがケバル川のほとりでわたしが見たあの生き物である」

――この生き物のことはエゼキエル書1章に詳しく述べられています。読んでみてください。それぞれが四つの顔を持つこと、翼があることが特徴です。

そぼ
奇妙な風体だなあ。でもその翼が羽ばたく音が、神の声のようだったとすると、なるほど天使だね。そして、やはり神の権能を敬っているわけか。でも、セラフィムもケルビムも旧約聖書というか、神の民イスラエルの歴史とともに登場してくるんだね。
りさ
そう、アブラハムが三人のお客を迎え、イサクの誕生が予告される話を知っていますか? 創世記18章1~2節。

「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた」

――この三人についても天使と考えられたり、神と考えられたりしています。ここでは、主の使い、といった言葉はないですが、主の使い、つまり天使のことは旧約聖書にたくさん出てくるんですよ。

そぼ
キリスト教の専売特許じゃないの!? 旧約の世界観、神観を受け継いでいるから当然、キリスト教にも流れ込んできたってこと?
りさ
そう、宗教史的にはユダヤ教~キリスト教~イスラム教という同じような背景から出てきた宗教には、天使という存在が共通しているんです。
そぼ
今でいう中東に発生した宗教は、なんか争ってきたとか争っているとかいうイメージだけれど、天使がいる、というところでは共通だったとはね。

 

名前のある大天使たち
りさ
ラファエル、ガブリエル、ミカエルっていう名前は聞いたことあります?
そぼ
欧米人の名前のもとになっている名だね。マイケル・ジャクソン、哲学者ガブリエル・マルセル、画家のラファエロとか。
りさ
それらも、旧約聖書に登場する大天使と言われています。これらは、普通、絵画でも人のように描かれていくので、定番の天使像の源といえるかもしれません。

イエスの誕生を巡って登場する、ガブリエルは「神の人」ないし「神はわたしの勇者」という意味で、ルカに2回(1;19、26)言及されていて、そこでは「神の前に立つ者」(1:19)と説明されています。このほかは、旧約の預言書ダニエル書に2回(8:16;9:21)登場するだけです。

そぼ
へえー。
りさ
ラファエルは「神は癒す」という意味で、新約聖書には登場せず、旧約続編(第二正典)のトビト記に登場するだけです。トビトとサラをいやすために遣わされた者という登場の仕方です(3:16)。

ただ神のことばを伝えるという役目ではなく、嘆き苦しむ、信仰篤きトビトとサラをいやすという役目で登場するのが重要に思います。

そぼ
トビト記はまだ読んだことがなかった。ラファエルつながりで読んでみよう。
りさ
そしてミカエルですが、旧約では、ダニエル書に登場するだけです。10章でダニエルの幻視の中に登場する一人の人が物語るなか、その人を助けてくれた「大天使長のひとりミカエル」として言及されます。

そして12章では、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」(1~3節)とあります。

そぼ
なんか、新約聖書でも似た響きのことを聞いたことがあるような……?
りさ
そう。福音書の中の黙示的なところや、ヨハネの黙示録なんかのトーンはまったく同じです。

マタイ福音書24章29-31節に「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」とあります。

そぼ
その「人の子」ってのがキリストのことをいうんでしょ! 天使はキリストに遣わされる存在っていう構図なんだね。
りさ
ミカエルという名前が出てくるところも新約聖書には2回あります。ユダ書9節にも出てきますが、ヨハネの黙示録が重要。その12章7節から。

「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(7~11節)

そぼ
なんか劇的だな。アニメでも見ているみたい。竜で悪魔やサタンが象徴されている。ミカエルが戦士のように描かれて、竜を退治している絵は、なんか見たことがあるな。
りさ
旧約で告げられてきた天使の存在が、ここで一つの決着点に達している感じがしませんか? ダニエル書に出てくるミカエルは、「神のメシアの権威が現れた」とあるぐらい、ほんとうにもう救い主のようです。

ちなみにミカエルという名前は「だれが神のようであるか」という問いかけを意味しているようで、ほとんど神に似た者というぎりぎりの存在のようです。

 

キリストは天使より優れ、それらを支配する
そぼ
でも、新約聖書というか、キリスト教では、キリストが唯一の神の御子、つまりは神だということからすると、天使がどんなに神に近いと言っても区別されるよね?
りさ
そうなんです! 新約聖書というかキリスト教の成立期は天使崇敬がとても盛んで、それらは聖書外典とかユダヤ教の文書とかで盛んに登場するといいます。

旧約聖書でもダニエル書やトビト記などは紀元前3~2世紀ごろのものなので、地中海世界の紀元前後がとても盛んで、教父の時代まで続くようです。その中でもキリストの救い主の役割は天使の役割の極限でもあるところから、天使と同様に理解するような天使キリスト論も根強い思潮だったようです。

そぼ
へえー!
りさ
その中で、キリストは天使よりも高く、それを支配している方であるという弁証がヘブライ書1章、2章のテーマでした。

たとえば1章3-4節「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです」と。

そぼ
神の御子キリストは天使たちよりも優れた者とはっきり言われているね。
りさ
黙示録の構図もそうです。たとえば、5章の11-12節。

「また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。『屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。』」

――ちなみにここでいう「生き物」というのは、4章6-8節で語られていて、「この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。』」というのです。

そぼ
あれれ、これってイザヤ書に出てくるセラフィム、エゼキエル書に出てくるケルビムと似ているし、合体されている感じ。しかもイザヤと同じように「聖なるかな……」と賛美しているよ?
りさ
ここでも賛美の中心は玉座(父なる神の座)で、そこには小羊(キリスト)がいて賛美を受けているという構図。これがミサの感謝の賛歌の前で「神の権能を敬うすべての天使……」という光景のもとにあるものです。
そぼ
黙示録という文書の中だけだと、聖書思想史の一幕にすぎないようだけれど、この光景は今もミサの中にあるというか、教会の今そのものなんだね。そう考えると天使というのは、古典としての聖書や、なにかの夢物語やメルヘンや絵画の世界のことだけではないってことかな。
りさ
そういうことですね。

 

聖書的天使の位階的総合
りさ
そして、教父時代のキリスト教天使論の集大成といわれているのが6世紀のディオニュシオス・アレオパギテースの『天上位階論』で、そこでは天使は三つの位階(ヒエラルヒア)とその各々の中での三つの階層(オルド)に分けられ、また総合されていると言われます。その日本語訳と英語表記はこんな感じです。

りさ
この考え方は、グレゴリウス1世大教皇(7世紀初め)によって微修正されましたが、西方教会の伝統となり、13世紀のダンテの『神曲』にも至るといいます。グレゴリウス1世のころはローマ典礼のミサが確立したころと言われるので、典礼における神とキリストを賛美し敬う天使たちというイメージは確立したものなのでしょう。

さらに、聖人という考え方やその崇敬も発達してくるので、死んだ後も天上で神を礼拝し、地上の人間のために祈る存在としての聖人たちと天使たちとは、いつもつなげて考えられ、天上の教会を構成する存在と考えられているのですね。

そぼ
今の天使の位階を見ると、旧約に登場するセラフィムもケルビムもうまく統合されていて、全体として「天使」と考えられることがよくわかるね。

それに日本語だと全部「天使」ということばがついているけれども、実際には支配権や権能や能力や権力など、天地宇宙の諸力のことが全部入っている気がする。それらは、いろいろな宗教で信じられている神々や霊力や精霊など、いろいろなものを指しているとも言われるよね。

りさ
そうですね。エフェソ書1章20-23節が参考になります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と。

それらの支配、権威、勢力、主権が悪と言っているわけでなく、いろいろな民族や人間に働くさまざまな力を指して言っています。それゆえに、神とキリストについて言われる「全能の」ということばはこれらすべてを凌駕し支配するという意味で、一言で「キリスト教世界観」を表す言葉です。

そぼ
あー、典礼でよく聞くな。でも、そういう世界観で、今の世界や日本を生きていくというとどうなるんだろうね?

 

天使は全世界、諸宗教をつなぐ
りさ
ソボくんがミサの中の「すべての天使と聖人」という言葉を聞くとき、なにを考えたらよいのかなと言っていましたが、確かにキリスト教では、父なる神と唯一の御子キリストが要だから、いつも神とわたしたち、キリストとわたしたちという問いかけが前面に出てきますね。

その一方で聖霊や天使については、聖人(個々の聖人)ほどは考えられてこなかったのではないでしょうか。でもいわばそのような中間的存在、神の御心、神の意志、神のことば、神の在り様を人に伝えたり、人間の上に立って、神を敬い、礼拝したり存在は、どの宗教にもあるような気がします。

そぼ
あ、思いつくのは、仏教の菩薩だね。観世音菩薩(観音さま)、地蔵菩薩(お地蔵さん)、とくに八幡大菩薩なんかも、守護者の神格だし。日本のさまざまな神様だって、具体的な利益をもたらす民衆に近いお守り的存在だし、むしろ天使と比べるのがよいのかも。
りさ
そう、その意味では、諸宗教の教理的なところよりも、民衆の生活、信心、民俗との関係で宗教を考えていくには、「天使」の存在は大いに注目し、考察していく必要があります。

 

今も天使はわたしたちにキリストを告げている
りさ
でも、やはりキリスト教の関係で、天使が登場するのは、イエスの誕生のところ(ガブリエル)、そして復活のところだということも忘れないようにしましょう。
そぼ
復活のところ? 
りさ
はい、上のところで紹介しませんでしたけれど、イエスの墓に行った女性たちに復活を告げる天使です。

マタイ28章2-3節で「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあるところです。このときの天使の現れについて、マルコ16章5節だと「白い長い衣を着た若者」とあり、ルカ24章4節だと「輝く衣を着た二人の人」 、ヨハネ20章12節だと、マグダラのマリアに「白い衣を着た二人の天使」が現れるという述べ方になっています。

いずれも天使による復活のお告げなのですが、イエス誕生のときのガブリエル、そしてイエスの復活のときの天使は、ただ、新約聖書の語る物語の中の存在だけではないということです。

そぼ
どういうこと?
りさ
つまり、福音書で、天使がもっとも重要な働きをするのがイエスの誕生と復活の告知のところだということは、この天使のメッセージはたえず、今のわたしたちにも向けられている、ということです。

そこに登場する人たちだけのためにではない、ということ。ミサの聖書朗読を通して、天使はいつもわたしたちにキリストについてのメッセージを発しているということです。

そぼ
それは信者じゃなくても、すべての人に、ってことだよね。
りさ
そう。それを聞き流すか、心に深く留められるかどうかは、わたしたち次第。でも、天使のことを真面目に考えていくと、人生が豊かになりそうな気がしません?
そぼ
そうかもね。絵画や劇や絵本や映画にもいっぱい興味が出てきたよ。ところで、ずいぶんたくさんのことを聞いたきょうだけれど、どんな本から学んでいったらいいのだろう。
りさ
今回のリサーチではいくつかのよい本に出合いました。長くなったので、本の紹介は別稿でしますね。

(構成:石井祥裕)

 


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