石川雄一(教会史家)
現在、ガザという地域は戦争やテロ、難民といった負のイメージと結びつけられて語られることが多いです。そんなガザですが、古代末期から中世初期にかけては、地中海における学問の中心地の一つとみなされていたのをご存知でしたか。古代の学問の中心地と聞くと、ギリシアのアテナイやエジプトのアレクサンドレイアを想起される方も多いと思われますが、聖地イェルサレムにも近い文明の交差点であるガザも、ある時期に知の拠点として発展したのです。ガザのアイネアス(Αινείας)という人は、「リュケイオン(アリストテレスἈριστοτέληςの学校)とアカデメイア(プラトンΠλάτωνの学校)はガザに移った」とすら豪語したそうです。本記事は、そんなガザの学問的全盛期とみなされる6世紀から7世紀にかけて活躍した「ガザ学派」と呼ばれる学者や隠修士の一団を紹介します。多くの人にとっては聞いたこともない人々の名前が出てくると思いますが、その中の一人にでも興味を持っていただければ嬉しいです。
ガザが6世紀から7世紀にかけて学問的に発展した最大の理由は、その立地にありました。「世界四大文明」に数えられるエジプト文明とメソポタミア文明の間に位置するガザは、紀元前の時代から、両文明の間を揺れ動いてきました。エジプトに支配されていたガザは、紀元前12世紀にペリシテ人に占拠され、その後、メソポタミア文明の大国がかわるがわる新たな支配者となっていきました。そして、紀元前4世紀、アレクサンドロス大王(Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)がエジプト文明とメソポタミア文明を征服し、ギリシア文化を広めると、ガザもこのヘレニズム文化圏に組み込まれます。
紀元前の間、エジプト、メソポタミア、そしてギリシアといった異なる文化からの支配を受けたガザでは、そうした国々が信奉していた神々がまつられ、宗教的な多様性がみられていました。つまり、ガザはキリスト教以前の異教が栄えた地だったのです。新たな覇者となったローマ帝国が、4世紀にキリスト教を事実上の国教とした後も、ガザではキリスト教化は進展せず、異教の文化が色濃く残り続けました。
こうした異教の一大都市ガザとは異なり、ガザの外港マイウーマ(Μαϊουμά)は、キリスト教を早期に受容していました。迫害期には殉教者も輩出したマイウーマは、そのキリスト教的伝統を誇りとしており、異教都市ガザとの関係は緊張していました。ガザの方が大都市であり、マイウーマの立場はあくまで外港であったにもかかわらず、そこに司教座がおかれていたことも両都市の緊張関係を表しています。
ところが、4世紀末から5世紀にかけて、異教都市ガザでもキリスト教が拡大することとなります。ガザの聖ポルフュリオス(Πορφύριος)という人が、初代ビザンツ皇帝といえるアルカディオス(Ἀρκάδιος)の援助を受けてキリスト教化政策を展開したのです。皇帝の支援を受けた聖ポルフュリオスは、ガザにあった異教の神殿や偶像を打ち壊し、キリスト教の聖堂を建設して異教徒に改宗を迫ったのです。こうしてガザは、半ば強制的にキリスト教の都市となりました。しかし、進んで信仰を受け容れていた古参のキリスト教都市マイウーマは、半強制的に信仰を受け容れさせられた新参のキリスト教都市ガザを疑いの目で見続けました。実際、529年にユスティニアノス大帝(Ιουστινιανός ο Μέγας)が異教を弾圧するまで、ガザでは異教の影響力が残り続けました。キリスト教化の後もガザとマイウーマの対立は終わらなかったのです。この対立は451年のカルケドン公会議を巡る論争の時代に絶頂を迎えます。
マイウーマとガザが対立する中、そうした都市の喧騒やしがらみを離れて祈りを求める人々が現れました。隠修士と呼ばれるこうした人々は、後の修道士の原型とみなされます。初めの隠修士にして修道制の父とされるのは砂漠の聖アントニオス(Ἀντώνιος)です。3世紀のエジプトで砂漠に退いたアントニオス以降、多くの人々が彼のように祈りの生活を求めて砂漠や荒野へ向かいました。特にキリスト教がローマ帝国に認められた後、様々な世俗的動機から洗礼を受ける者が増えると、そうした“エセ”信者から距離を置くために多くの敬虔な者たちが隠修士となっていったのです。
エジプトの砂漠に退いた聖アントニオスに倣い、4世紀のガザでは聖ヒラリオン(Ἱλαρίων)という人が荒野に退きました。聖アントニオスのほぼ同時代人である聖ヒラリオンは、こうして、ガザを含むパレスチナにおける最初の隠修士となりました。この聖アントニオスと聖ヒラリオンの伝統は、サラミスの聖エピファニオス(Ἐπιφάνιος/オリゲネスΩριγένηςを激しく批判した神学者)、ガザの聖エサイアス(Ἠσαΐας)、イベリア人ペトロス(Πέτρος ο Ίβηρας/今日のジョージアにあたるイベリア王国の王子で、コンスタンティノポリスで育ったマイウーマ主教)を通じて聖バルサヌフィオス(Βαρσανούφιος)に継承されていきました。そしてこの聖バルサヌフィオスの時代に、「ガザ学派」の一派である「ガザ修道士学派」が形成されることとなります。
バルサヌフィオスが活動していた6世紀は、カルケドン公会議が採択したカルケドン信条を巡って各地で激しい対立が見られた時代でした。カルケドン信条についての議論は、難解な神学や政治的状況が複雑に絡み合っているため、ここでは深入りせず、以下のような概要を述べるだけにしておきます。
4世紀から5世紀にかけてイエス・キリストの本性、つまり、「イエス・キリストは人なのか神なのか」ということを巡る議論がおこっていました。このことに関して、特にシリアのアンティオケイアを中心とする学派とエジプトのアレクサンドレイアを中心とする学派は対立関係にありました。紆余曲折の後、この論争に決着をつけるためカルケドン公会議が開催されたのですが、そこで採択されたカルケドン信条も物議をかもし、その受容を巡って教会は、カルケドン派と非カルケドン派に分裂していたのです。
ガザの位置するパレスチナは、北からはアンティオケイア学派の、南からはアレクサンドレイア学派の影響が流入しており、カルケドン派と非カルケドン派が入り混じっていました。宿敵の関係にあるガザとマイウーマもカルケドン信条を巡り対立し、前者はカルケドン派、後者は非カルケドン派の都市となっていました。聖ヒラリオンの伝統を継ぐ隠修士たちもこの論争に巻き込まれ、例えばイベリア人ペトロスは、穏健な非カルケドン派の中心的神学者であるアンティオケイアのセベロス(Σεβῆρος)の師となりました。
政治的問題とも複雑に絡み合ったカルケドン信条を巡る議論がキリスト教会を二分する中、聖バルサヌフィオスは、本来の隠修士の理想、即ち、都市の喧騒や政争から退いて祈りの生活を送るという霊性を復興させ、また、深めました。偉大な先人の隠修士の言葉を頻繁に引用する聖バルサヌフィオスは、その霊性を隠修士だけに留めるのではなく、むしろ都市に住む信徒にも伝えようとしました。膨大な量の手紙を書いて霊的指導をした聖バルサヌフィオスは、ガザにおける隠修士の伝統を復興しただけなく、それをまとめ、多くの人々に伝えたのでした。
そんな聖バルサヌフィオスは、政争には関わらなかったとはいえ、神学に無関心であったわけではありません。例えば、彼は聖エピファニオスの伝統を継承してオリゲネスの異端的な理論を反駁しています。
ガザとマイウーマやカルケドン派と非カルケドン派といった対立の時代にあって、先人の霊性を守り深めた聖バルサヌフィオスには多くの弟子がいました。そのうちの一人が尊者聖ヨアンネス(Σεβάσμιος Ἰωάννης)であり、ガザの聖ドロテオス(Δωρόθεος)でした。
アンティオケイアの裕福な家庭出身の聖ドロテオスは、古典の教養、特に修辞学の教養がありました。6世紀に生まれた聖ドロテオスは、西欧におけるボエチウス(Boethius)のように、古代ギリシア=ローマの古典と中世をつなぐ橋渡し役を果たしました。と同時に彼は、聖バルサヌフィオスら修道士たちによる「ガザ学派」と、都市における「ガザ学派」を結び付ける人物であったともいえます。
既に述べたように、ガザはエジプトとメソポタミアの間に位置した都市であり、ヘレニズムの影響も強く受けていました。古代地中海世界を代表する文芸都市と言えばエジプトのアレクサンドレイアでしたが、ガザは、そのアレクサンドレイアに次ぐほどの学問都市としての名声を博していきます。様々な理由でアレクサンドレイアでは研究ができなかった学者たちは、ガザを拠点として、古典の人文学的教養から科学、哲学に至るまでの幅広い学究に従事していきました。優秀な学者が集まっていくガザは学生にとっても魅力あふれる街となっていきます。アレクサンドレイアまで遠くて通えないパレスチナやメソポタミアの人々は、ガザで勉強することも選択肢の一つだったのです。なんだか、日本の大学受験に似ているかもしれませんね。
いずれにせよ、ローマ帝国が東西に分裂する4世紀末頃には、ガザはアレクサンドレイアに次ぐ南東地中海の学問的中心地とみなされるようになっていました。そして5世紀にアレクサンドレイアでキリスト教の力が増大して、異教的な古典の勉学が抑圧されるようになると、異教の影響が色濃かったガザに古典研究の中心地が移るようになります。
映画化もされたヒュパティア(Ὑπατία)の惨殺事件はあまりにも有名ですが、過激なキリスト教徒による異教的古典の弾圧の被害者となったのは彼女だけではありませんでした。例えば、ホラポロン(Ὡραπόλλων)という古代エジプトの知的伝統を受け継ぐ学者は、ヒエログリフの注釈書を書いた異教徒の学者でしたが、480年代にキリスト教徒に追われてアレクサンドレイアを離れざるを得なくなりました。そんなホラポロンは、ガザを新たな研究拠点とし、ガザのティモテオス(Τιμόθεος)ら優秀な弟子を育てました。
このようにアレクサンドレイアから古代の知的伝統を継承したガザは、同時に、新プラトン主義の思潮もアレクサンドレイアから受け取ることとなります。プラトンは言うまでもなくアテナイ出身ですが、地中海各地を旅していました。そんな彼の思想は、ギリシアのみならずアレクサンドレイアでも発展し、中期プラトン主義、そして新プラトン主義が形成されていきます。新プラトン主義を代表するプロクロス(Πρόκλος)もアレクサンドレイアで活動していました。そんな新プラトン主義の中心地であるアレクサンドレイアから多くの学者がガザに逃れてきたのです。また、キリスト教を保護して異教を弾圧したユスティニアノス大帝が529年にアカデメイアの閉鎖を命じると、行き場を失った学者が、異教的な伝統が残るガザに逃れたとも考えられます。6世紀、ガザは新プラトン主義の一大拠点となっていったのです。
上記のように、古代の古典や新プラトン主義の伝統を受け継ぎ、アレクサンドレイア没落後の知的拠点となったガザは、同時にキリスト教の伝統がある地でもありました。ガザに近いカイサレイアは、使徒言行録23章から26章に書かれているように聖パウロが捕まっていた場所でした。そのカイサレイアで3世紀に活躍したオリゲネスは、自身の著作を含めた多くの蔵書を収めた図書館を開設しました。異教のアレクサンドレイア図書館とキリスト教のカイサレイア図書館の間にあるガザは、その立地から双方の図書館にアクセスすることができ、写本を作ることができたでしょう。聖エピファニオスや聖バルサヌフィオスがオリゲネスの反駁に力を注いだことも、彼らがカイサレイア図書館由来の写本に触れられたことを示唆しています。残念ながら現存していませんが、アレクサンドレイアとカイサレイアに並ぶ第三の図書館がガザにあったことが想像できます。
これまで見てきたように、都市ガザでは古典、新プラトン主義、そしてオリゲネスら教父の学問研究が盛んでした。中でも、ホラポロンらが伝えた修辞学研究が盛んであったため、都市における「ガザ学派」を「ガザ修辞学学派」と呼ぶこともあります。他方、聖アントニオスと聖ヒラリオンの伝統を継ぐ霊性を受け継ぎ、深化させた聖バルサヌフィオスを中心とする「ガザ学派」は「ガザ隠修士学派」と呼ぶことができるでしょう。そして聖バルサヌフィオスと尊者聖ヨアンネスの弟子でありながら、修辞学の教養もあった聖ドロテオスは、この両者の「ガザ学派」を統合することとなるのです。
6世紀、聖ドロテオスの時代に最盛期を迎えた「ガザ学派」ですが、その直後に滅亡することとなります。7世紀初頭にアラビア半島で生まれたイスラーム勢力が、軍事力を背景に急速に拡大し、ガザもすぐに陥落してしまうからです。キリスト教や古典の学知はイスラーム思想にとってかわられ、ガザはイスラームの都市として発展していくこととなるのです。
- Brouria Bitton-Ashkelony and Aryeh Kofsky (eds.), The monastic school of Gaza, Brill, Leiden, 2006.
- Jennifer L. Hevelone-Harper, Disciples of the desert: monks, laity, and spiritual authority in sixth-century Gaza, Johns Hopkins University Press, Baltimore, 2005.
- Michael W. Champion, Explaining the cosmos: creation and cultural interaction in late-antique Gaza, Oxford University Press, Oxford, 2014.
- Sabino Chialà e Lisa Cremaschi (édd), Il deserto di Gaza : Barsanufio, Giovanni e Doroteo, Edizioni Qiqajon, Magnano, 2004.