縄文時代の愛と魂~私たちの祖先はどのように生き抜いたか~6.子抱き土偶2/2~その愛と魂~


森 裕行(縄文小説家)

5000年前に八王子市の宮田遺跡4号住居址の周溝で発掘された「子抱き土偶」。前回は出産直後の母子像ではないかと推定したが、今回は当時の文化状況などを検討し、さらに土偶のリアルに迫ってみる。

6.子抱き土偶2/2~その愛と魂~

子抱き土偶の作られた5,000年前……旧約聖書の時代の始まる2000年前。ギリシャやクレタ文明の前の古ヨーロッパ文化の時代でもある。中国では良渚文化や仰韶文化の時期。そんな時代に日本列島ではいくつかの文化圏があり、子抱き土偶は縄文中期の富士眉月孤文化圏に属する遺物である。


この文化圏では土を掘ったり植物を刈ったりしたのではと思われる打製石斧が多く、最近では土器圧痕から大豆、小豆などの栽培が現実味を帯び、生業に占める農耕の認識が変わりつつある。栗やクルミなども含め、豊作祈願など農耕的な精神文化が育まれていた可能性が高い。また、この文化圏では中央広場に墓を備えた環状集落が多く作られた。写真は2021年に東京都江戸東京博物館で開催された「縄文2021-東京に生きた縄文人」での八王子市松木の多摩ニュータウンNo.107遺跡の模型である。中央広場の墓域(写真中央奥)で近親者による埋葬が行われているのが見える。

(「縄文2021-東京に生きた縄文人」展にて 筆者撮影)

これは現在ではなかなか想像できないが、死者と生者が同じ村に同居する住み方であり、当時の縄文人の魂観がポジティブで「愛そのもので死んで身体から離れる生命体」のようなイメージがあったのではなかったかと推測される。

また、当時は平均寿命が30歳程度といわれる生活環境の厳しい時代、母子ともに危険を伴う出産や乳幼児の育成に特別な関心を持つことは当然で、安産祈願に代表される子孫繁栄への願いが切実だったと思われる。

宗教の起源は6万年前ごろに遡るようだが、宗教はアイデンティティを明確にし、厳しい現実の中で力強く生き抜く糧となったと思われる。当時の宗教については後日、別途お話しするが、宮田遺跡で発見された土偶は、①豊作祈願②安産祈願を中心に、当時の宗教的枠組みの中で使われたのではないだろうか。

では、子抱き土偶の造形解釈と利用方法を考えてみたい。今回は埼玉考古第57号(2022.3)第58号(2023.11)に掲載された嶋崎弘之氏の「縄文人の土偶祭祀」を参照しつつ迫ってみたい。

(歴民博研究報告の37集(特集 土偶とその情報)1992 安孫子昭二、山崎和巳「東京都の土偶」より)

まず、土偶自体の解釈であるが、穴をどう解釈するかである。土偶製作上で竹串のようなものを必要としたかについては、土偶製作に詳しい田野紀代子氏が否定されている。次に形状が婦人ではなくお婆さんという説が小野正文氏により出されているが、嶋崎弘之氏も穴の表現からお婆さんではなく婦人としている。また、側面から母親が子供を抱く手が蛇とも臍の緒とも見える渦巻き。筆者は出産直後の臍の緒を母子の強い結びつきを示す象徴として暗示表現しているのだと思う。また腹部(へそが深い)が肥大していて、横座りといった特徴から出産直後の像と思える。

さらに記号表現といった別の視点で見ると、底部や臍の穴を中心に玉抱き三叉文のような造形が浮かび、膝のズボンの文様や側面の衣服と母の右手が子を抱く渦巻きから渦巻き三叉文といった造形も浮かんでくる。こうした造形は土器にもあり象徴的な意味をもった記号とすれば、この母子像には誕生に関わる象徴的意味が付加されているように思える。

(八王子市郷土資料館所蔵 宮田遺跡 子抱き土偶(レプリカ) 高さ7.1cm)

(八王子市郷土資料館所蔵 宮田遺跡 子抱き土偶(レプリカ))

(八王子市郷土資料館所蔵 宮田遺跡 子抱き土偶(レプリカ))

ところで、この土偶の探しても見つからなかった頭部は敢えて搔き取られたとする見方がある。日本書記にウケモチノカミが出てくるが、この神は食物の起源を説明する神で、一般にハイヌヴェレ型の神話と言われ、日本だけでなく環太平洋地域を中心に広く伝承されている。食物を与えてくれるウケモチノカミ(保持神)がツキヨミノカミ(月読神)に殺され、その死体から食物等が生じ人間に恩恵を与えるという神話である。子抱き土偶もその文脈で死と再生の意味があり、祭儀で土偶の頭部を搔き取られたのではないだろうか。

ではどんな頭が子抱き土偶についていたかだが、これについては次回のお楽しみとしたい。

ところで、一般に土偶の顔は斜め上を見ている。大島直行氏や嶋崎弘之氏により指摘された土偶の特徴ともいえるもので、古ヨーロッパの土偶などにも同じ傾向があり、土偶は死と再生を繰り返す月を象徴しているのではとも言われている。

(埼玉考古第57号 「縄文人の土偶祭祀」嶋崎弘之著 2022)

(Vinca Idol Cleveland Museum of Art)

(グアテマラ マヤ地方 先古典期後期 BC400~100 BIZEN中南米美術館 筆者撮影)

では、どのように土偶は使われたか。一番考えられるのは土偶の頭部が搔き取られる祭儀ではないだろうか。次のような物語を作ってみた。

満月の夜。宮田の村人が100人近く中央広場に集まる。幼児や子供も多く村人総出だ。竪穴住居の出入口の幼児の墓や中央広場の祖先の墓域には花が添えられ、男たちが中央付近に祭壇を設営し子抱き土偶を置く。満月の夜で篝火にチラチラ照らされた村人たちの顔は明るく輝く。土偶のそばに行くと、女神は村人たちに優しい眼差しを送ってくれている。空には満月。聖なる月と愛そのものの魂をもった村人の顔。優しい土偶を見つつ、村人は広場の死者の魂達の安らぎも感じる。深鉢で神聖な食事を共にした後。祭儀のクライマックスで土偶の首が搔き取られ悲観の叫びがあがるが、やがて静寂と共に愛そのものの女神を想い、食べ物の恵と子孫繁栄の祈りをささげる。

ご協力いただいた田野紀代子氏、安孫子昭二氏、写真提供に快諾していただいた方々に深く感謝いたします。次回は子抱き土偶の復元について。


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