(前半はこちらです)
――2013年に日本に来て、中間期はどちらに行かれたのですか?
中間期の最初の丸1年は鎌倉、十二所の黙想の家でした。その後山口に派遣されましたが、私にとって鎌倉の1年は大事だったかなと思います。あまり活動のようなものはなかったですが、今後日本で働くための良い準備ができたのではないかと思います。
例えば、日本史、日本の地理、日本語、日本の一般的な文化などについて、非常に良い先生から教えていただきました。日本史、特に日本の地理が分からないと、日本人と話し合うときになかなか話が通じません。「あなたはどこの出身ですか?」と聞いて、「中国地方」とか「関西地方」とか、そういう地理が分からないとなかなか難しい。そういう学びが基礎となったのです。だから鎌倉の1年は、私にとって非常に大事な1年でした。
鎌倉の後、山口県の下関に派遣されました。教会のお仕事はあまりなかったのですが、主に幼稚園で子どもたちと一緒に遊ぶ時間を過ごしました。そこでも神さまからいろいろな導きがありました。自分も知らない自分の一面を知ることができ、子どもが好きだという自分自身も知らなかったことを発見できました。特に、幼稚園では毎朝朝礼があり、聖書のみことばの話があります。当番の先生方はカトリック信者ではないですが、本当に深い祈りをなさっていて、感心したのですね。もし一歩進んで、ぜひカトリック信徒になってくださったら良いなとは思うのですが、やっぱり自分がいくら頑張っても、神さまがその人の心に働かないと、難しいですね。
――ベトナムの子どもたちと、山口で接した子どもたちは、違うところもあるかもしれないですが、共通しているところはありますか?
子どもはかわいいのですよ。純粋な心をもっていますね。嫌だったら「嫌!」と言うし、「やめて!」っていうのもすぐ言いますからね。子どもは、ある意味で神様に一番近い人たちです。子どもたちは、あんまり神様のことを論理的には分からないのですが、心は一番神様に近いですね。だからイエスは、子どものようにならないといけない、と言ったのだと思います。
――山口の幼稚園での体験は、すごく特別な期間だったのですね。なかなか小さい子どもと母国語ではない言葉で接するというと、最初はすごく不安があるだろうなと思います。そういうときには、どうされていましたか?
子どもと接するときに、言葉の問題はそんなに大きいわけではない気がします。自分のありのままに一緒に動く。子どもは動きますからね。逆に喋れないからこそ、楽しいですよ。子どもたちは、言葉の間違いを「変な日本語ね~」って笑いますね。ありのままの自分を生きる。そうやって子どもたちと一緒に過ごせるのが一番いいかなと。
――神父さんの笑顔が優しくて、ほんとうににオープンに心を開いていくから、きっと子どもたちも純粋にそれを感じ取るのでしょうね。山口での中間期は、どれくらいの期間だったのですか?
1年半でした。最初は、半年ぐらいの予定だったのです。でも私は、急いで神学を学ぶ必要はないと考えました。将来日本に残って働くのだから、山口でまずきちんと日本の文化、生活、日本人の友達を作るように、そして日本語を勉強してもっとできるように、自分がもっと日本を愛するように(知りたいと思った)。日本が自分にとって家になるように、そういう友達を作らないと、なかなか自分が日本(管区)に所属するという気持ちにならないのですね。日本を愛さないと、日本人を愛せないのです。
――そこまで深く考えて、これまで私たちにも接してくださっていたのだなと思うと嬉しいです。ありがとうございます。中間期の後は、東京の上智大学で4年間神学を学ばれましたね。ベトナムの方との出会いというのは、東京ではありましたか?
ありましたね。ベトナム共同体は、私が最初に日本に来たときからあったのですが、その頃からどんどんベトナム人青年たちが増えてきました。自分が日本に来てからよく考えていたのは、将来日本人のために働きに来たのだから、ベトナム人とはあまり接しないように、ということでしたね。もちろんベトナム人とも関わるし、そんな簡単に自分のアイデンティティを無視するわけじゃないのですが、ベトナム人との交わりを持ちながらも、バランスを取っていくのですね。ベトナム語をよく使ってしまうと日本語があまり上達しないから、というのもあります。ベトナムの共同体は、私が神学生の間にもどんどん増えたのですが、コロナ禍になってからは、他のベトナム人司祭とも協力しながら動いていますね。
――2021年9月4日に東京のイグナチオ教会にて司祭叙階され、2022年から再び山口に派遣されました。最初は防府教会、現在は細江教会の助任司祭でいらっしゃいます。今の生活はいかがですか?
勉学から離れて嬉しいですよ(笑)。しかし、現在の司牧の場での大変さというのも結構あります。今、私にとって一番大変なのは、幼稚園の毎朝の朝礼ですね。ミサの説教をするのはそんなに大変ではないのですが、朝礼で話すことは大変です。信者ではない先生方に向かって話すことは、なかなか難しいですね。信者ではない方々に「こう言ったらどう感じるか」とか、言葉の選び方などを結構気をつけなければならないので。しかし、もちろん楽しさもありますよ。
――山口にも、ベトナムの方は多くいらっしゃいますか?
結構います。私は現在下関市に住んでいて、担当しているのは、山口・島根です。主に4つのベトナムのグループがあります。まず、私は細江教会に(助任司祭として)いるのですが、そのほかは防府教会、宇部教会、徳山教会。この4つの教会の付近に住んでいるベトナム人たちがそれぞれ自分たちのグループを作って、できる限り毎週日曜日、日本語のミサに参加しているのです。基本的に、自分たちがその日本人の共同体と同じ空間で過ごしてください、と薦めています。
しかし、自分たちのアイデンティティを持ち、自分たちの言葉で霊的にも深められるよう、月に2回ベトナム語のミサがあります。ミサの後は、決まって楽しい時間を過ごしているのです。最近は、津和野の乙女峠に、大体70人ぐらいの山口・島根のベトナム人で集まって、津和野教会から乙女峠まで行列をしました。彼らは、明治初期の迫害の歴史をよく知っているわけではないと思っていますが、アクティビティの中でその殉教のことを話しています。こうして考えながら、殉教のことも少しずつ分かってほしいと願っています。
――日本人信徒とベトナム人信徒との交わりは盛んなのでしょうか?
幸いなことに、こちらの地区の日本人の信徒の方たちが優しい方ばかりというか、ベトナムの若者たちのお世話をよくしてくださっています。ベトナム語のミサのときに参加していただいている日本人も結構多いのですよね。日本語のミサに出てくるベトナム人をサポートするグループもあって、結構交流があります。
――みんなで助け合いながらやっているようで、良い雰囲気なのですね。
結構良い雰囲気ですね。もちろん、日本語のミサに来るベトナム人は、そんなに多くはないのですが。でも、日本語のミサに来るベトナム人と日本人との間の関係は、私には良さそうに見えます。東京と比べたら、こちらは家庭教会という感じですね。
――日本人の信徒さんは結構少なくなってきていますか?
そうですね。高齢化もあり、今はあんまり元気ではないかもしれません。でも、今はちょうどコロナ禍が収まってきて、どんどん元気さが戻ってくるような期待があります。教会の活動がないと、なかなか生き生きとした雰囲気じゃないですよね。例えば、ミサの典礼も歌えないですし。ただ、これからまた戻ってくるでしょう。
――それでは、トアン神父さんの現在の活動は、もっぱら畑作りですか?
畑を作っているのですが、優先しているわけじゃないですよ(笑)。一つの楽しみ、趣味です。畑は教会の敷地から結構離れていて、大体車で20分ぐらいのところです。教会は下関市内にあるので、土はなく、海の方に行かないと空き地がないのですね。今、安岡というところに畑があります。楽しみといっても、それだけではない意味があります。
最初の派遣先は防府教会でしたが、コロナ禍でなかなか活動できませんでした。でも、ずっと部屋に引きこもっていたらあまり良くないかなと、出かけていく。教会に人が来てほしいのですが、教会に来てほしいと言っても、なかなか教会に出会うきっかけがないのです。教会のこと、イエスさまのことを知ってもらうために、きっかけを作らないとなかなか難しい。だから、「出かけていく」。自分の趣味として畑をやり、同じあたりで畑をやっている人との交わりが生まれてきました。
「あなたは誰ですか、外国人ですか、どこから来て、何の仕事をやっているのですか?」
「まだ若者なのに畑をやるって、どういうことですか?」
「あなたは結婚しているのですか? 子どもは何人いるのですか?」
いろいろ聞かれますが、「いいえ、すみません、私は独身生活をしている、カトリック教会の司祭です」と(自己紹介して)。それからいろいろ質問されて、カトリック教会のことを理解してもらえるようになって、これはやっぱり意味があるかなと(思う)。そうして「畑をやっている変な外国人、カトリック司祭らしい」という噂がどんどん流れていって(笑)、あたりを車で走ったら、「この人! カトリック司祭」って(言われる)。驚きましたが、やっぱり意味があるかなと思うのですよね。
――もう地域の有名人になりかけているのですね。
そういう感じになりましたね。
――「出かけていく」。これがすごくキーワードになっている気がします。トアン神父さんが自ら動いていくから、周りのみんなの心も開かれていくのだろうなと思っているのですが。
畑のことは、教会の他の方々と協力しながらやっています。細江教会はもうすぐ解体して、新しい聖堂を建て替えるのです。そのために、20年かけて1人で50万ぐらいを借金するようなプロセスです。しかし他の信徒たちと協力し、畑のものを販売しています。3つの教会でそれぞれ販売し、お金は建設費になりますね。大変な仕事ですが、協力しながらやっています。私一人では無理ですが、信徒にとっても盛り上がるきっかけになっています。畑作りがその一つになってきました。
「あなたは、何をしているのですか。司祭ですか、農夫ですか、神父ですか?」と聞かれます。「教会にいるときには神父、畑にいるときには農夫です」と答えていますね(笑)。
――畑ではどんなものを作っていますか。野菜ですか?
いろいろですね。今は、きゅうり、ズッキーニ、オクラなどがありますね。茄子とかもあって、楽しいです。
――今日のインタビューで、神父さんが日本に対して、本当にオープンにご自分からまず心を開いて、愛してくださっているのだなっていうのがすごく伝わってきて、想いを感じました。これから教会の中で、あるいは畑などの活動の中で、もっとこうしていきたいなと思っていらっしゃることはありますか?
大きな質問ですね(笑)。目標は特にありませんが、毎日毎日、司祭として誠実に祈り、ミサの説教の準備をしておく。また、出会う人々に不安を与えないようにしていく。少なくとも、自分と出会う人々に神さまの喜び――喜びとまでは言えないかもしれないですが、人と交わるとき、その場で喜び、幸せを感じられるように願っています。今を生きる自分、ありのままの自分で生きる。怒るときがあっても良いのですが、お互いにゆるし合う心を持つように。なかなか難しいですが。
目標というと結構難しいのですが、やっぱり自分は司祭として生きる、その誠実さを守っていく。それによって神さまの働きが表されるのではないかなと思います。自分が何かできるというよりも、自分がいることを通して、神さまの働きがある。そういうふうに思っていますね。
――パーソナルな歴史の中にも、ベトナムのカトリック教会の様子、あるいは日本の印象とか、信仰生活、司祭となって、あるいは宣教師としてどんなふうに考えていらっしゃるかが、インタビューを通してよく伝わってきました。東京にいるとなかなか地方の教会の感覚が分からないので、東京にいてもそういう教会とか、いろんな国の人が交わっている、交わらなきゃいけない状況にあるということもすごく実感できたので、参考にしようと思います。ありがとうございました。
(2023年6月30日 zoomにて収録 聞き手:AMOR編集部)