(新潮社、1973年)
伊藤淳(カトリック東京教区司祭)
もう四十年以上も前の話です。高三の夏休み明けに、実力試験がありました。
頼みもしないのに受けさせられた国語の試験の一問目は、「次の文章を読んで問いに答えよ」というありきたりのもので、頼みもしないのに読まされたのは、遠藤周作の『イエスの生涯』の一節でした。
イエスが逮捕される前後の弟子たち、特にユダの心境について、遠藤の考えが記されていて、その最後にこうありました。
「ユダもまたイエスによって救われたろうか」。
驚いて続きを読むと、その答えはこうでした。
「私はそう思う」。
びっくりしました。
カトリック学校に通い、聖書研究会にも一応所属していた私は、ユダが十二使徒の一人でありながら、師であるイエスを祭司長たちに売って十字架上の死に至らしめ、それゆえに「裏切り者ユダ」と呼ばれて、キリスト者から忌み嫌われていることくらいは知っていました。地獄に一番乗りするような男だと思っていました。
そんなユダが救われたなどということがあるのでしょうか。
文章の最後に理由が説明されていました。
「なぜなら、ユダはイエスと自分の相似関係を感ずることで、イエスを信じたからである。イエスは彼の苦しみを知っておられた。自分を裏切った者にも自分の死で愛を注がれた……」。
心の底から驚きました。そして、心の底から感動しました。
中高六年間をカトリック学校で過ごした私は、キリスト教に憧れのような感情を持っていたのだと思います。ただ、キリスト者は自らを清く正しく美しく律することができる人がなるものであって、私自身はそれに該当しないと考えていたので、「どうせ俺は……」とすっかり拗ねてしまっていたのです。
ところが、ユダでさえ救われたとすれば、自分のような者でも最後にはユダと一緒に救ってもらえるかもしれないと思えてきて、試験中にもかかわらず不覚にも涙がこぼれてしまいました。
涙は答案用紙の上に落ち、たちまち丸い染みを作ってしまい、慌てて拭っても後の祭りで元には戻らず、試験終了とともに答案用紙はそのまま回収されていき、答案返却時にはあろうことかそれが涎と間違われて、先生から「試験中に居眠りするな」とお叱りを受ける始末でしたが、しかし、いやいや受けていたこの実力試験での『イエスの生涯』との出会い、同伴者イエスとの出会いで、それまで捻くれていたキリスト教への思いが素直なものとなり、大学一年の冬には洗礼を受けるに至ったのでした。
『イエスの生涯』で遠藤周作が描いたイエス、高三の実力試験で出会ったイエスは、それ以来、確かに私の同伴者であり続けてくださっています。
イエスの生涯を読みたい、と思います。
しっかりと読みたいと思います。。