縄文時代の愛と魂~私たちの祖先はどのように生き抜いたか~18.縄文人にとっての故郷


森 裕行(縄文小説家)

私は多摩にもう30年以上住んでいる。人生の中で一番長く住んできた地域である。しかし、あなたの故郷(ふるさと)はどこですか? と聞かれると、物心ついて育った四ツ谷・坂町と答えるかもしれないが、7歳のころ一年も住まなかった南西アラスカのシトカにも深い想いがある。あるいは、腰を据えて住んでいたわけではないが、夏休みによく過ごした父の郷里の広島県・竹原も引っかかる。

時というのはギリシャ語でクロノスとカイロスと二つの概念があるようだが、クロノスは過去から今、未来に向かって流れる客観的に計測できる時刻。一方、カイロスは個人の内面的で主観的な時間である。そして、故郷(ふるさと)という言葉は極めて内面的であり、初々しい地域への共感や愛着と関係し、五感で感受した複雑な感情の動きとも同期するカイロスの表現なのである。

私は戦後生まれの東京育ちであり、ざっくり言うと映画「always3丁目の夕日」の昭和30年代の雰囲気が私の故郷に似ている。そして、隣近所は貧しいながら家族の延長線上にあり、もっと連帯感があった。今ではビルが立ち並ぶ都心でも、子供時代は空き地がたくさんあるので遊ぶところには困らず、結構危険なこともしていたが、大人はそれに構う余裕もなかった。今は当時に比べれば物質的には豊になったかもしれないが、連帯感という意味では、格差を始め極めて多様化したことで、連帯感は希薄になってしまった。大事な政治の選択の時に、今の日本は信じられないほど投票率が低いのも、私たち住人の時・カイロスが昔のようではなく、地域や国が他人事に流れ、しっかりしたアイデンティティを獲得しないと自分事としてとらえられなくなってしまっているのだろう。

さて、今住んでいる多摩の地元で小学生相手に故郷の縄文文化を知ってもらいたいと、ちょっとしたボランティア活動をしている。郷土史と言えば、近代から中世、古代まで話題は事欠かないが、縄文時代や旧石器時代は土の中から出てきたモノしかなく、名前がわからない祖先のありようはここひとつピンとこないので、自分事としてとらえにくいという問題がある。ただ東京都埋蔵文化財調査センターが手掛けた多摩ニュータウンの遺跡数964のうち800が縄文時代であり、またその縄文時代のうち450が中期とのこと。さらに、膨大な調査結果や最近の科学の進歩もあり、縄文時代の理解をさらに深めることは他人事ではなく自分事の範疇に入りつつあると思う。今回はモノで縄文人の心中を探ろうと、縄文時代中期後葉(BC2950年ころ~BC2470年ころ)の多摩の文化をいろいろ調べた。井戸尻考古館によると当時の多摩は、中部高地・西南関東を中心とした「富士眉月孤文化圏」の一員であった。

『八ヶ岳縄文世界再現』(井戸尻考古館、田枝幹宏著 1988年 新潮社 見返しより)

もちろん、東関東の文化圏にも深く関係し。例えば土器は文化のアイデンティティの一つの表現と考えられるが、多摩では中期中葉は勝坂式土器(甲信では新道式->藤内式->井戸尻式)の他に阿玉台式(東関東)、そして中期後葉は曾利式(甲信・南西関東)、連孤文(多摩を中心にした在地系)、加曾利E(東関東)と複数の土器が使われている。

そして、中期後葉の連孤文土器がでてくるBC2860からBC2640新地平11aから12b)ごろまでの約200年の時代に重なるように出てくる土偶がある。図示すると次のようになる。

たまのよこやま130 2022東京都埋蔵文化財調査センター 6P

これらの土偶は大半が小型で地味なこともあり、今まで一般には語られることは少なかったようである。しかし研究が深められた結果、この一連のタイプの土偶の開祖は長野県の富士見町にある坂上遺跡の土偶ではないかと推定された。この土偶は2016年に

坂上遺跡の土偶 井戸尻考古館にて 筆者撮影

展開図は井戸尻考古館にて筆者撮影

重要文化財に指定され、井戸尻考古館に展示され鑑賞できるが、その特徴は中期中葉の井戸尻文化圏の精神性を引き継いだ美しい形態だけでなく、黒曜石で一気に描いたような力強い細密な文様にある。複雑な文様を自分のものとして書き上げていることから、文様を書いたのは村長とか宗教儀式の長といった方ではないかと安孫子昭二氏は推測している。両脇に男女のようなものが描かれていることから、発掘に関わった武藤雄六氏はその図柄を神官と未婚の王女と読み解き、このタイプの土器を人体文土偶と命名した。一方、この土偶は前図「中期後半の土偶の分布」のように各地で違った呼び名であったが、安孫子昭二氏が文様の共通性から命名した背面人体文土器という名で通用している。

私の住む大栗川中流域には、堀之内芝原公園周辺のNo.72遺跡があり、900年の長期にわたる竪穴式住居址が沢山みつかり拠点集落と考えられている。そして、その周辺にも一時的に住み替えに使ったり、手狭で分村したような住居址が見つかっている。そして、その住人が、縄文中期のある時期に背面人体文土偶をつかっていることが分かってきた。前図ではたくさんの足省略タイプの土偶が出土した若葉台駅近くのNo.9遺跡が表示されているが、No.72や周辺の遺跡のNo.446B遺跡では別のタイプの背面人体文土偶もこの地域で出土している。

「縄文中期集落の景観」(安孫子昭二著 2011 アム・プロモーション)268P

東京都埋蔵文化財調査センター 筆者撮影

手前がNo.72遺跡、奥がNo.446B遺跡で見つかった背面人体文土偶。

このうち、No.72遺跡の背面人体文土偶は坂上遺跡の土偶に似ているが背面の人体文は次のとおり。

東京都埋蔵文化財調査センター調査書を改変

東京都埋蔵文化財調査センター調査書を改変

また、No.446Bの土偶の人体文は次の通り。

東京都埋蔵文化財調査センター調査書を改変

東京都埋蔵文化財調査センター調査書を改変

このうち首筋から二重の孤の間の文様はギリシャ文字のπに似た文様であり坂上土偶の首筋の紋章の下半分をとったようである。この紋章(エンブレム)は446Bの土偶が出尻型であり、紋章も複雑なことから、446Bの土偶が先の時代のものと安孫子昭二氏は推察している。

ところで、この土偶が出来た時は、先に述べたように在地のオリジナルの連孤文土器の時代であり、土器や土偶等で彼らのエンブレムを誇示する時代だったのだろう。心理学的に考えると、こうしたエンブレムによりグループへの忠誠心が高まり、各自のアイデンティティがより統合され元気になり、ネガティブな自己混乱感が減少していく効果は、今の時代と同じであろう。縄文時代中期後葉のこの時期であるが、多摩では住居址が増える繁栄の時であり、東関東との住人との摩擦も少なからずあり混乱感が高まる時だったかもしれない。ひょっとしたら戦後の「always3丁目の夕日」の時代の東京タワーやテレビといった時代の象徴のようなエンブレムだったかもしれない。

最後に、今の時代の処方箋はどうなのだろう。安易なエンブレム作りより前回のような「縄文人の時と祈り」のように、自然や他者に五感で細やかに共感し、もののあはれの文化の再評価。そして、より本質的なアイデンティティに目覚めることが、遠回りのようで一番近い道かもしれない。

*背面人体文土偶については「縄文中期集落の景観」(安孫子昭二著 2011 アム・プロモーション)を主に参考にしました。


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