石川雄一(教会史家)
現在のトルコ共和国の面積のほとんどは、小アジアとも呼ばれるアナトリア半島によって占められています。この地に遊牧民族であったトルコ人が本格的に住むようになったのは11世紀後半からであり、それまでの約1500年間はギリシア人が住んでいました。今でこそムスリムのトルコ人が多数を占めるアナトリア半島ですが、古代や中世のある時期においてはキリスト教徒のギリシア人が多数派だったのです。今回はそんなアナトリアにおけるキリスト教の歴史を概観してみましょう。
アナトリアにキリスト教が伝えられたのは、教会の歴史上、極めて初期のことでありました。パウロが度々宣教のためにアナトリアを訪れたことは使徒言行録13-14章に記されていますし、小アジアの共同体に向けて書かれた手紙、すなわちガラテア、エフェソ、コロサイの信徒への手紙は新約聖書に納められています。また、ペトロの手紙やヨハネの黙示録も小アジアの信徒に向けて書かれています(一ペト1・1、黙1・4)。
聖書の時代から教会にとって重要な土地であったアナトリアは、教父時代になると神学発展の中心地のひとつとなります。例えば、小アジア西岸のスミュルナはポリュカルポスやエイレナイオスを、中部のカッパドキアは、ニュッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオスらカッパドキア三教父を輩出しました。彼ら小アジア出身の神学者たちは、その後のキリスト教思想に多大な影響を与えました。また、初期の七公会議の内の半数以上、すなわち、第一・第二ニカイア、エフェソス、カルケドン公会議が小アジアで開催されています。
このようにキリスト教史の様々な出来事の舞台となってきたアナトリアは、政治的には、紀元前1世紀にローマに征服され、395年のローマ帝国分裂後はビザンツ帝国領として発展していくことになりました。特に、東方の国々との国境地帯となったアナトリア東部では、「アクリティカ歌謡」と呼ばれる、日本で言うところの「防人歌」のような独自の文学が発達します。また、アナトリア東部からは多くのアルメニア人がビザンツ帝国に移住し、アルメニア使徒教会やパウロス派と呼ばれるアルメニア由来の異端が一定の存在感を示していました。そんなビザンツ帝国内のアルメニア人は、小アジア南東に位置するキリキアに集まり、12世紀にはキリキアのアルメニア王国として独立を果たします。
ビザンツ帝国領であったアナトリアにおいてアルメニア人の国が成立した背景には、帝国の弱体化という深刻な状況が関わっていました。6世紀末に誕生したイスラーム勢力は、急速な軍事的拡大によりビザンツ帝国の東方国境を脅かし続けていました。シリアやアフリカを喪失したビザンツ帝国にとってアナトリアの東方国境は最も重要な防衛線でしたが、11世紀にセルジューク朝トルコの二代目スルタン(君主)アルプ・アルスラーンの脅威にさらされます。事態を打開しようとしたビザンツ皇帝ロマノス4世は大軍を率いて親征するも、味方の裏切りにあい、1071年のマンツィケルトの戦いで大敗してしまいます。マンツィケルトの戦いで敗北した皇帝は捕虜となり、東方国境も瓦解、ビザンツ帝国は瞬く間にアナトリアを喪失してしまします。こうしてアナトリアは、ルーム・セルジュークとして、ムスリムのトルコ人に支配されることとなりました。
その後、西ヨーロッパから来た十字軍の助けを借りたビザンツ皇帝アレクシオス1世は小アジアの一部地域を奪還することに成功します。ですが、カトリックの十字軍と正教のビザンツ帝国の間でいさかいがおこり、1204年には第四次十字軍がビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服してしまいます。ヨーロッパ側の領土を喪失したビザンツ帝国は、小アジアの領土にニカイア帝国とトレビゾンド帝国というある種の亡命政権を建国して、生きながらえました。13世紀の間にニカイア帝国はコンスタンティノポリスを奪還し、トレビゾンド帝国も独自勢力としてビザンツ帝国よりも長命を保つこととなりました。
このように風前の灯火であったビザンツ帝国の命脈を保つ役割を果たしたアナトリアでしたが、13世紀末に成立したオスマン朝トルコに再び征服されることとなります。ルーム・セルジュークの地方政権のような存在であったオスマン・トルコは、他の地方政権を次々と併呑することで勢力を拡大し、やがてはビザンツ帝国を滅ぼすほどの大勢力に成長しました。征服したコンスタンティノポリスをイスタンブールと改名したオスマン・トルコは、トルコ人のオスマン家が支配するイスラームの国でしたが、その広大な領土には多くの異民族やキリスト教徒、ユダヤ教徒らが居住していました。ですが、19世紀の民族主義の高まりにより各地の人々は独立し、オスマン・トルコの領土は小アジアを中心とした地域に狭められることとなります。このような状況の中、アナトリア東部のアルメニア人が独立することを恐れたトルコ人は、アルメニア人を虐殺し、数百万人がジェノサイドの犠牲となったといわれています。
オスマン・トルコに代わって成立したトルコ共和国は、政教分離を打ち出し、国家の世俗化を進めました。しかし、今日のトルコでは、栄光に満ちたオスマン・トルコ時代の復興を掲げて政教一致を目指す動きが再燃しています。元はキリスト教の聖堂として建てられ、オスマン・トルコ時代にはモスクに改装され、その後のトルコ共和国時代に博物館となったハギア・ソフィアを2020年に再びモスクとしたことは、こうした動きの代表例と言えるでしょう。他方、教皇フランシスコは2014年にトルコを訪問し、原理主義に対抗する形での宗教間対話の重要性を訴えました。古代から中世にかけてはキリスト教の発展に寄与し、近世においてはオスマン帝国としてイスラーム世界最大の勢力として威光を放ったトルコ。その長く複雑な歴史は今後どのように展開していくのでしょうか。