皆さんは「主の祈り」という祈りをご存じでしょうか。キリスト者のしるしともいえる、イエス・キリスト自身から弟子に教えられ、以来、教会において、またキリスト者によって絶えず祈られているものです。「天におられるわたしたちの父よ」で始まる、その祈りの一節に「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」ということばがあります。
教会の集いでも、また、このAMORにかかわるメンバーの集いでも、「主の祈り」は唱えられます。そして多くの人は「わたしたちの罪」とは何だろうか、「『わたしたちも人をゆるます』って、『ゆるす』ってどういうこと?」と、自ら問いかけているのではないでしょうか?
教会が受け継いだ「主の祈り」はマタイ福音書6章9節~13節にあるので、さまざまな訳を探っていくことも、対応方法の一つです。たとえば新共同訳では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とあり、フランシスコ会訳(2011年版)では、「わたしたちの負い目をお赦しください。同じようにわたしたちに負い目のある人をわたしたちも赦します」となっています。「罪」を「負い目」と理解する可能性があることや、神に赦しを願う文と次の文の関係にはさまざまな解釈があることがわかります。
ちなみに、カトリック教会で以前唱えられていた「天にましますわれらの父よ」で始まる「主の祈り」では、そこのところは「われらが人にゆるすごとく、われらの罪をゆるしたまえ」となっていました。専門家でさえ悩む解釈を、こちらで解決することなど到底できませんが、神にゆるしを願うことと自分たちが人をゆるすことの間には、なにか関係があるらしいことは自然に考えさせられます。
しばしば、キリスト教が語る「罪」ということが日本人には難しいといわれます。しかし、世界の文豪たちも日本の文学者たちも真摯に人間を考えていくときに罪というテーマに触れないことはありません。映画でもドラマでも……この罪と赦しをめぐる謎が、明示的にも暗示的にも、いつもどこかで触れられていると感じます。
そして、イエスの教えてくれた祈りを受け継ぎ、日々、唱え続けるなかで、罪と赦しの問題は、わたしたちからの疑問というだけではないのだ、と気づかされます。それは、逆に、なによりも、キリストから、そして神から突きつけられている謎であり、問いかけなのだと。心が苦くなるような神からの挑戦です。しかし、そこは恐れずに格闘しなくてはならないのだろう、そこに、なにか新しい未来が切り開かれていくきっかけがあるのではないか、そう感じられてなりません。今回、寄せられた教会生活の経験、海外経験、そして文学体験を通して思い巡らされた軌跡を、読み合い、聴き合いながら、考えを深められたら、と思います。
ノア・ゴードン著 『最後のユダヤ人』(木村光二訳、出版:未知谷、2021年)