『罪と罰』における二つの「罪」―相対的な罪と絶対的な罪―


清水真伍

カトリックのミサは神に罪を告白し赦しを乞うことから始まります。キリスト者にとって「罪」とは根源的な問題の一つでしょう。その点でドストエフスキーの『罪と罰』は私たちにとって示唆に富む小説です。

『罪と罰』は、嫌われ者の金貸しの老婆を殺して奪った金で百の善をなそうとする青年ラスコーリニコフの功利主義的な殺人と罪の意識による苦しみ、そして娼婦ソーニャとの出会いと彼女を通じた彼の救済を描いた小説です。

『罪と罰』はロシア語でПреступление и наказание(プレストゥプレーニエ イ ナカザーニエ)といい、「プレストゥプレーニエ」が「罪」を意味します。ロシア語には英語のcrimeとsinのように「法律上の罪」と「宗教上の罪」の区別がありますが、「プレストゥプレーニエ」は「法律上の罪」を意味します。これは「踏み越える」を意味する動詞、переступить(ぺレストゥピーチ)の名詞形であるため、直訳すると法律を「踏み越えること」という意味です。一方、「宗教上の罪」はロシア語でгрех(グレーフ)といいます。

自身の超人思想を語るラスコーリニコフ(ドミートリイ・スヴェトザロフ監督『罪と罰』 © 2007 ASDS All rights reserved.)

小説のタイトルにもあり、直訳すれば「踏み越えること」になる「プレストゥプレーニエ」という言葉には、主人公ラスコーリニコフの全思想が込められているといえます。彼はナポレオンのような非凡な人間はその使命を果たすために凡人たちの倫理規範を踏み越える権利がある、あるいは踏み越えなければならないという超人思想に基づき金貸しの老婆を殺害します。このように非凡な人間が既成の価値観の枠を踏み越えることを彼は「プレストゥプレーニエ(踏み越えること)」と呼びます。すなわちタイトルの「プレストゥプレーニエ」とは、単に「法律上の罪」を指すのではなく、ナポレオンになるための一線を「踏み越えること」というラスコーリニコフの超人思想を表現しています。

ラスコーリニコフにとっては、老婆の殺害も自身が非凡な人間であることを証明するために凡人たちの法律を「踏み越えること」でした。既成の倫理規範を万人向けのものと見なし、自身は凡人たちの道徳を乗り越えることを試みるラスコーリニコフの思想は、ニーチェの『善悪の彼岸』を想起させます。ニーチェは西洋文明において絶対的価値観として君臨するキリスト教的道徳を相対化し、それに盲従する人々を畜群や奴隷と呼んで批判しますが、ラスコーリニコフの思想にもまた神という前提はありません。

それに対して宗教的な罪の意識を持つのは、娼婦として身体を売りながら家族を養うソーニャです。彼女は「わたしは……恥ずべき女ですわ、ひじょうに、ひじょうに罪深い女ですわ!」と言いますが、「罪深い女」はロシア語原文で「宗教上の罪(グレーフ)」に由来するгрешница(グレーシュニッツァ)となっています。

二人の罪の意識は対称的ですが、モーセの十戒に「殺すなかれ」、「姦淫するなかれ」とあるように二人とも神に対する罪を犯しており、ラスコーリニコフが自身の殺人を「宗教上の罪(グレーフ)」として認識できるかどうかが物語の鍵となります。

「ラザロの復活」を朗読するソーニャ(同上)

罪の意識に苦しむラスコーリニコフがソーニャにヨハネ福音書にある「ラザロの復活」を読み聞かせてもらう場面は象徴的です。イエスが「ラザロ、出て来なさい」と言うと墓の中から死んだはずのラザロが出てくるこの奇跡は、人間の罪からの復活を象徴する物語として解釈されています。「ラザロの復活」の朗読を聴いたラスコーリニコフはソーニャに自身の殺人を告白し、ソーニャは自首をして罪を償うことを勧めながら糸杉の十字架をラスコーリニコフに与えます。

しかしラスコーリニコフはソーニャの元を去ったあとも自首をするか否か悩み、「ぼくは自分の罪が理解できんのだ!」と言います。ここでは「法律上の罪(プレストゥプレーニエ)」という言葉が使われています。自身の殺人を「プレストゥプレーニエ」と呼ぶラスコーリニコフの罪の意識は概して相対的です。一人の人間を殺せばそれは犯罪として裁かれる一方、ナポレオンは何万人という人間を殺しながら英雄視される、このような人間の法律の矛盾を前に自身の殺人を法律を「踏み越えること(プレストゥプレーニエ)」と考えている限り、彼は自分の行為に罪を見出すことができません。彼が自身の「罪」を理解するためには自分の殺人を神に対する絶対的な「罪」、すなわち「グレーフ」であると自覚する必要があります。

それでもラスコーリニコフは罪の意識に耐えきれず、自首するため警察署に向かって歩き出します。この道すがら、彼はソーニャの「十字路へ行って、みんなにお辞儀をして、大地に接吻しなさい。だってあなたは大地に対して罪を犯したんですもの」という言葉を思い出します。そして彼はその場でひざまずき、大地に接吻をします。ソーニャの「罪を犯したんですもの」は「グレーフ(грех)」から派生し宗教上の罪を犯すことを意味する「ソグレシーチ(согрешить)」という言葉が使われています。ソーニャの「(宗教上の)罪を犯したんですもの」という言葉に応えるようにラスコーリニコフがひざまずき懺悔したことは、彼の罪の意識の変化を表しているといえるでしょう。

地面に接吻するラスコーリニコフ(同上)

このように『罪と罰』では、「法律上の罪(プレストゥプレーニエ)」と「宗教上の罪(グレーフ)」の使い分けにより、登場人物ごとの罪の意識のちがいと一人の人物の中での罪の意識の変化、それにより主人公が自身の「罪」と向き合えるようになる姿が描かれています。

ラスコーリニコフは、一人の殺人が犯罪で、何万という人間を殺したナポレオンが英雄視されるという人間の法律の矛盾を前に自身の「罪」が理解できずにいました。これは極めて予言的であるといえます。私たちもまた神なき時代、神という前提のない時代に生きています。このような時代において正義は相対的なものになります。原爆の問題はどうでしょう。戦争を早期に終結させ、結果的により多くの人の命を救ったとして広島、長崎への原爆投下を正当化する言説に私たちは未だ明確な反論ができずにいます。正義が相対的なものになる世界で殺人はときに正当化され、英雄視されます。

しかし、ラスコーリニコフが必要としたように、人を殺すことを「汝、殺すなかれ」に対する絶対的な罪と考えるとき、はじめて私たちは大量殺戮をも正当化してしまう人間の法の矛盾に自信をもって否と言えるようになるのではないでしょうか。そのときはじめていかなる暴力や殺人にも反対する絶対平和主義も息を吹き返すのではないでしょうか。それは理想かも知れません。しかし人々がそれぞれの正義を振りかざし争いをつづける今日、神の普遍的な法に基づく正義と平和の理想を説くことが神を信じるキリスト者に求められている役割なのだと私は思います。

 


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