千葉悦子(吉祥寺教会所属・キリシタン史研究者)
デ・アンジェリス神父の生涯を書く前に、12/4の訪問先キウザ・スクラーファニで誕生したジョゼッペ・キアラGiuseppe Chiara神父について書きたい。
周知の通り、彼は遠藤周作『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルである。彼はキリシタン時代の最大の殉難者と言えるだろう。キウザ訪問は今回のシチリア巡礼のメインの一つだ。
また、今年は遠藤周作の生誕100年目に当たるのも奇しき偶然である。
キアラは1602年に生まれた。1602年と言えば、デ・アンジェリスが日本上陸を果たした年だ。両者には父子ほどの年の差がある。ナポリのイエズス会で神学を学び、1623年には早くも「日本派遣」を何度も会に嘆願している。アンジェリス殉教の年だ。
1633年、管区長代理(当時、実質的にイエズス会の日本代表)のクリストヴァン・フェレイラが穴吊るしの刑に耐え切れず棄教し、初めての「転びバテレン」となる。穴吊るしは長崎奉行竹中采女が考案したものだが、日本の刑罰史上極めて残酷なものでキリシタンにのみ用いられた。キリシタンは通常の拷問には屈しなかったからだ。
フェレイラの棄教は迫害に耐えてきた信徒達に大きな動揺を与えた。宗門へのダメージを知ると、幕府は神父を殉教者にするのではなく、転ばせることに主眼を置くようになった。
そして、宗門の動揺は国内にとどまらなかった。
「フェレイラの背教がヨーロッパに知れると、イエズス会その他の修道会の中に非常な苦痛を与えた。イエズス会士は自分の血で修士の罪を洗うため、皆競って日本に遣られることを望んだ。1635年、イエズス会の神父34名がリスボンで乗船した(パジェス『日本切支丹宗門史㊦』p302)」のだった。【マストリリの一団】である。
イタリア版Wikipediaによると、その中に既にキアラ神父がいた。しかし難破等のトラブルのため入国できたのはマストリリのみだった。彼はすぐに捕縛され、惨たらしい刑の末に殉教した。
1642年には日本巡察師アントニオ・ルビノが「ルビノ隊」を結成。マニラを出航した第一団8名は、薩摩に上陸し、直ちに捕縛。長崎・西坂で穴吊るしの刑により全員が殉教した。これが【ルビノ第一団】だ。
1643年、次いでキアラ神父ら10名が筑前に上陸【ルビノ第二団】。キアラにとっては20年来の祈願が叶ったのである。しかし彼らは直ちに捕縛され江戸の小伝馬町牢(アンジェリスが収容された牢)に送られ、切支丹奉行井上政重のもとで尋問を受ける。そこに当のフェレイラが幕府の通訳として登場する。キアラたちの驚愕、フェレイラの内的苦悩は想像に余りある。この場面は『沈黙』のクライマックスである。奉行井上は両者を冷ややかに眺めたことだろう。井上は蒲生氏郷の家臣で、元キリシタンだったとも言われ、パードレやキリシタンの心情を熟知していた。この時、井上による巧みな心理操作と穴吊るしの苦痛により全員が棄教した。彼らは小日向の切支丹屋敷に収容された。
キアラは、処刑された武士岡本三右衛門の後家を妻として与えられ、その和名をも与えられた。十人扶持となり、宣教師についての情報の提出や宗門改方の業務を行った。晩年の1674年、奉行の命令でキリスト教の教義書『天主教大意』三巻を執筆した。後に新井白石がシドティ神父尋問の際に予め読んで教義を研究している(三巻は門外不出で許可された者だけが閲覧できた)。
1685年、キアラは小日向切支丹屋敷で病死する。享年83。幽閉生活が42年にも及んだことに驚かされる。
遺体は荼毘に付され小石川無量院に葬られた。司祭帽をかぶったような墓石は現在は調布サレジオ会敷地内に移設されている。2016年調布市の有形文化財に指定された。
『沈黙』を私が語るのはおこがましい。当AMORサイトで遠藤氏のエピソードや『沈黙』考を読むことができる。
特集77 遠藤周作生誕100年 | AMOR (webmagazin-amor.jp)
特に次の、遠藤氏の葬儀の場面は象徴的な話として考えさせられた。
遠藤周作とぼくの、魂の“深い河” | AMOR (webmagazin-amor.jp)
脇道にそれるが、キリスト教を真正面から取り上げた日本の書籍の中で傑作を挙げるとすれば、個人的には、『沈黙』、田中小実昌『ポロポロ』、若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』、その三つを挙げたい。
『ポロポロ』は小実昌の短編集である。表題「ポロポロ」は10頁ほどの小品だ。呉市の独立教会の牧師が異言を語り出す。信徒たちもいつしか異言を語り出す、といったかなり特異な教会の牧師夫婦の話である。牧師夫婦は小実昌の実の親だ。ある牧師から、「これは実際にあった話」だと聞いた。教団が異端視しても、大勢の信徒がその教会に通うようになり、「あの地域の教団が分裂する大騒動になった」という。しかし、小説に書かれているのは子が淡々と語る「神の命に触れた人の話」である。
若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』は天正少年使節団についての歴史論考だ。キリシタン史の独学を始めた頃の私が550頁もの大著を一気に読了できたのは、筆者の関心―天正少年使節団とは何だったのか、四少年は何を見て何を考えどう生きたのか。―への肉迫が凄まじく、そして面白かったからだ。可能な限りの内外の史料を調べ上げ、使節団の行程を実際に歩き、筆者の歴史観で自由自在に史料を料理し、「召し上がれ」と出してくれたような書である。
上記三冊は、各々、「谷崎潤一郎賞」「大佛次郎賞」といった大賞を受賞している。無論一般の評価も非常に高い。信者わずか1%(内カトリック4割、プロテスタント6割)の日本で受け入れられたのは何故か。私はそのことをよく考える。
(ついでながら、私の映画ベスト1はトリアー監督の『奇跡の海』。少し知的障害を持つ「神の命に触れた」女の愛の話だ。モロ宗教的(且つヒリヒリする愛の)映画だったが、台風の日にもかかわらず映画館には大勢の若者が詰めかけたのだった)
徹底したものは日本人にも受け入れられるということだろうか。宗教という範疇を超える何かを見出すということかもしれない。
シチリア巡礼の話に戻るが、12/4には赤ん坊のキアラが受洗した聖ニコラス教会を訪問する。2016年に(サレジオ会)コンプリ神父の巡礼団が訪問し初めて追悼ミサを挙げた。その時コンプリ神父は前掲「殉教者ジョゼッペ・キアラの肖像画」を発見した。17世紀は正確な情報が届くのに何年もかかる時代である。長い間「キアラ神父は日本で捕縛され、殉教した」と考えられていた。そのため、故郷では殉教画が描かれた。その真実は、遠藤周作の『沈黙』(イタリア語版)やスコセッシ監督の『沈黙―サイレンス』によって地元でも認知されたが、殉難者として、今も尊敬を受けているとのことだ。
キアラ神父の生地を訪れ、その生涯を改めて黙想してみたい。
そして、12/6、7にはパレルモのシドティ神父ゆかりの地を訪問するのだが、シドティ神父とキアラ神父の繋がりは深かったと私は考えている。キアラの死から24年後に同じ切支丹屋敷に幽閉されたシドティは屋敷の中でキアラの生きていた痕跡を幾つも発見したはずだ。更に、長助・はるは二人に仕えた召使いであった。
シドティ神父について次回は書こうと思う。